12/24/2014

感謝

 今日はクリスマスイブだが、そんな聖夜にも当直している医師と看護師さんたちがいる。そんな彼らを思って、ケンタッキーフライドチキンのボックスとホールのチーズケーキを一つずつ、ERとICUに渡してきた。有難うと言ってとても喜んでくれたが、有難うといいたいのはこっちだ。こんな私にも役に立つことがあると思わせてくれるのだから。それにしても私のERとICUへの愛情は初期研修時代からの筋金入りだ。看護師さん達がずばぬけて献身的で有能で素敵だから、惚れるのも無理はない。

12/04/2014

Healerへの道

 このあと、理想のhealerは社会全体を癒す存在、社会的弱者を守る存在でなくてはならないなどとつづいたあと、最後に著者によるhealerの祈りで本書は締めくくられた。Healerへの道は遠い。しかし高みを目指さなければならない。著者はドンキホーテの言葉を引用しているが、この言葉は私を奮い立たせた。Osler卿がドンキホーテを読めと薦めているのも納得だ。

 It is the mission of each true knight. . .
(それは真の騎士それぞれの使命だ...)
 His duty. . . nay, his privilege!
(彼の義務、いや特権だ!)
 To dream the impossible dream,
(不可能な夢を夢見て、)
 To fight the unbeatable foe,
(倒せない敵と戦い、)
 To bear with unbearable sorrow,
(耐えられない悲しみに耐え、) 
 To run where the brave dare not go,
(勇敢なものさえ敢えて行かないところを駆け、) 
 To right the unrightable wrong.
(正すことの出来ない不正を正す!) 
 . . . To love, pure and chaste, from afar,
(遠くから思慕し純潔と貞操を守り、) 
 To try, when your arms are too weary,
(腕が疲れて動かないときにもあきらめず、) 
  To reach the unreachable star!
(つかむことの出来ない星をつかむ!)

Healerと患者の関係

 Healerは患者を心からケアし、つねに患者のケアに集中し、助けるために何も出来ないとしても害は与えてはならないと知っている。患者のケアのためにすべての患者について一歩踏み込んで学ぼうとし、また患者のケアにたずさわる全ての人からも学ぼうとする。よく観察し、システマチックで、熟考し、注意深い。一人で独立して考えることが出来、エビデンスに基づいた治療を個々の症例にあわせて最も適切で効果的なやり方で行うことが出来る。
 非常事態にも任務を動じずに行うことが出来る。そう簡単にはまごついたり動揺したりしない。患者と取り交わしたすべての情報を秘密にする。患者が医師の言うことを理解できるようにし、患者の言うことも理解しようとする。病気を持った誰かを診療するのであって、単に病理プロセスだけを診るのではない。なにかを勧める時には節制と謙遜をもってする。食事、生活、運動など自然の力を借りた包括的な治療計画をたてることが出来る。
 これも著者は医学生に質問していて、その回答は患者の話を聴く、よく聴く、さえぎらない、共感を持って患者を接する、患者を大事にする、素晴らしいラポールを築く、全般的にユーモアのセンスがある、患者が居心地よくいられるように接し、対等で双方向の関係が持てる、感情面のニーズにも応えられる、恐れと不満を希望と行動に変えることができる、正直である、信頼できる、患者を人としてみる真の関心を持っている、などであった。

Healerとはどんな人か

 医師が医師なのはtechnicianではなくhealerだからだと言ってもよいだろうが、いざhealerとはどんな人かと言われると定義があるわけではない。だから身近なロールモデルを参照したり、古今東西のすぐれたhealerについて読んだりするわけだが、healerを構成する要素のおよその束みたいなものはあって、本書でも紹介されている。

 すなわち、人間性に真の関心を持ち、人類同胞のために尽くすことほど崇高な職はないと信じて、道徳規範となり、利他的に善を施すため医療を行う。患者だけでなくその家族、知人、そして自分自身も大事にしてあげる。どんな場面でも丁寧で、礼儀正しく、親切だ。最高のhealerになるためなら物欲から離れることが出来るいっぽう、謙虚で医のアートを知り尽くすことは出来ないと知っている。

 著者は医学生にもhealerがどんな性質を持った人か聴いてみたところ、共感的で、無私の精神で、与えることを悦び、人として魅力的で、勤勉で、思慮深く、正直で、智恵を持ち、理性的であると同時に現実的で、理解を示し、辛抱強く、好奇心があり、広い視野を維持でき、心の広い人だという結果だった。

Physician Heal Thyself(汝自身を癒せ)

 「Full potentialで働く」を日本語で「全力で働く」とか「100%の力で働く」と訳すと、なんだかその人は無理をしているように感じられるのは私だけだろうか。そのニュアンスの違いが、この節「Physician Heal Thyself(汝自身を癒せ)」に表されている。要は自分の健康を守れない人が人の健康を守れないということだ。予防できる病気にかかって体調を崩すのは馬鹿げていると著者は言う。そして自分で自分の健康管理をするのはいいが、自家診療(自己診察、家族の診察)は客観性を欠き質が落ちるので信頼の置ける主治医を持てと。

 また、患者のケアに執着しすぎて燃え尽きたり、患者と密接になりすぎてストーカーや脅迫されたり命の危険にさらされたりしないよう自分を守ることも大事だ。著者は理不尽に患者からメール、電話、直接に苛まれ、診療拒否を試みたが失敗し、州の医師会に問い合わせて紹介してもらった弁護士を頼って患者が近づけないようにした経験を書いている。後にこの患者の行動は精神疾患の前触れだったとわかった。さてこれで第八章は終わり、終章に続く。

忘れられない一言 26(aka the true poetry of life)

 医師として働くことは、自分の得た知識と経験をつかって人のためになり、尊敬されお金にも困らないが、勤務時間もながくストレスもたまりきつい仕事でもある。時にはほかの職業で楽をしてお金もたくさんもらえる人がうらやましく思えたり、そもそも自分はどうしてこの職業を選んだろうと自問することもあるだろう。そんな時に、Osler卿がこんなことを言っている。

Nothing will sustain you more potently than the power to recognize in your humdrum routine, as perhaps it may be thought, the true poetry of life - the poetry of the commonplace, of the ordinary man, of the plain, toil-worn woman, with their loves and their joys, their sorrows and their griefs.

 患者(と家族)の人間サイドに気づくこと。医師こそは患者の心の部分、ソフトな部分を知る特権を持っている。これを助けにすれば前向きに医師としてやっていけると著者は言う。そのために、患者(と家族)とのやりとりで得たヒューマンな部分を日誌に書き記すのがなお良いと著者は言い、これについては以前にも触れた。私の「忘れられない一言」シリーズもそこに影響されて始まったものだ。

12/01/2014

医療過誤 2

 患者が訴訟を起こしたからといって、必ず裁判になるわけではない。裁判で争われるべき違法性、またそのような事実があると認められるとは限らないからだ。だから、たとえ患者が訴えても被告にならないようにすることが最善だ。次に、万一被告になってしまったら、自分を弁護してくれるチームをいかに効果的にアシストするかを知ることが重要だ。
 患者(と家族)はおおくの場合に、治療の一連の流れのなかで起きた結果に驚いて「訴えてやる」となる。誤診された、診断を見逃されたと感じたり、悪い結果に対する不満感情ともいえる。もし患者(と家族)が患者の元々の状態が悪かったうえでのことだという認識を了承していたり、医療が完璧でないことに気づいていてくれたら、彼らはそこまで驚かないかもしれない。
 医療過誤訴訟であなたを守ってくれる最も大切な「防具」は何か?よく知られたことだが、カルテだ。しかし、逆にカルテは患者側があなたを攻撃する最大の「武器」にもなる。開示されたカルテは患者側の代理人が別の中立な医師のところに持っていって、そのうえで一字一句調べられ、その医師が過失・厳重責任・不法行為がなかったかの意見を述べるからだ。カルテをあなたを刺す剣ではなくあなたを守る楯にするには、どうすればよいのだろうか?
 それには①明確で②正確で③タイムリーなカルテを、忙しい臨床のなかでも「これくらいはできるでしょ」というリーズナブルな最善の労力を払って書くことだ。ひとりひとりのカルテを長編小説にする必要はない。要点をおさえたカルテを書くことだ。診たことを書く(診なかったことは書かない)、したことを書く(しなかったことは書かない)。とくに患者、家族、コンサルタントとのやりとりは、要点を押さえて書くことが求められる。
 こうして書いたカルテは、まずなにより保存する(紛失しない)。そして言うまでもなく重要なことだが、いかなる状況でも改ざんしない。これが見つかったときあなたのキャリアには…(恐ろしいことが起こる)。万一編集するときには、編集したことを明示し、その理由と編集日時もはっきりと書くべきだ。
 万一患者が訴えを起こしたら、いちはやく自分の医療過誤保険者に知らせることだ。患者側は、訴えを起こした時点ですでにあなたのカルテを読み込んで訴訟に勝てるという根拠を握っているのだから、のほほんと構えている余裕はない。弁護団を早急に用意してくれるようにお願いすべきだ。不安にかられて誰彼かまわず打ち明けたくなるのは本能だが、自分の弁護人以外にはするな。著者は"loose lips sink ships"と言っている。
 一方弁護人に対しては真実を率直に包み隠さず述べよ。たとえ真実が「醜く、いいかげんで、悪い」ものであっても、弁護人はあなたを弁護することを一番に考えてくれる存在なのだから。そして、客観的に振り返って自分の治療が「標準の治療」から外れていなかったこと、過失と患者の害に因果関係がないことを医学的に立証しようと最善の努力をしろ。弁護団にあなたの医学的な見解を述べることで、あなたは弁護団に貢献できる。というか、この裁判で失うものが最も大きいのはあなたなのだから、自分にできることは全てしなくては。そして、ながい法廷闘争のあいだ、弁護団に質問に答えてもらったり弁護戦略を相談したり、密接な関係を維持しろ。
 医療過誤は起こる。いつどのようにおこりやすいかを知り、患者(と家族)とのコミュニケーションを良好に保ち、緊急で重大な診断も率直に話し合い、心配になったら医療訴訟保険者にすぐさま連絡を取り、弁護団を召集してコミュニケーションを密接にとることがマスト(must)だ。そうすればyou will survive!と著者は言っている。私は在米中に訴訟に巻き込まれたことはないが、長く臨床していれば避けられなかっただろう。経験ある著者のアドバイスとして肝に銘じよう。

医療過誤 1

 医療過誤を避けてつねによい診療を選択できるに越したことはないが、医師は経験数と実力に関わらず、よい診療をして診療録をつけていても、それでも訴えられる。この本によれば医療過誤は人身傷害(personal injury)、不法行為法(tort law)の範疇にはいり、①過失(negligence、損害を与えるかもしれないと予想できるにもかかわらず不注意によりそれを回避しないこと)、②厳格責任(strict liability、たとえ過失や悪意がなくてもその行為の結果発生した損害に責任を問うこと)、③故意による不法行為(intentional torts)に分類されるという。
 医療過誤は患者が医療者が過失を犯したと主張した場合に起こる。過失を証明するには、①裁判所はその医療者が、彼または彼女と同等のトレーニングと経験をもった人が類似した状況でするであろう標準的な治療から逸脱していることと、②その結果患者に害が及んだことを示す必要がある。それでたいてい医療訴訟では鑑定人(expert witness)として呼ばれ証言させられる。なにが「標準的な治療」なのかは医療職ギルドによって規定されるが、このように身内の意見が大きな役割を果たすのは医療訴訟の特徴ともいえる。
 医療過誤がおこったらどうするかを説明する前に、医療訴訟は起こらないに越したことはないわけで、著者はそれについて強調している。言うまでもないことだが、鍵はよい患者(と家族)とのコミュニケーションだ。誰だって間違えは起こすが、医師・患者関係が良好に保たれていれば、それが訴訟に至るのはごく一部だ。それは、おおくの場合に患者は医師を尊敬し信頼しているからだ。そのためにも、満足のいく医師・患者関係を平素から維持することは、よい診療をおこない正確なカルテを書くことと同じくらい重要だ。
 しかし、初診で命に関わる疾患を診断した場合など、コミュニケーションをとる時間が十分にとれないこともあり、このような場合は訴訟に至りやすい。たとえ時間がなくても、いいづらくても、患者(と家族)に事の重大さを説明し理解を共有することは医師の責任である。これを著者は"hanging crepe paper(ちりめん紙を掛ける)"と比喩している。これは米国で昔、病人の死期が迫ると家の前に黒いちりめん紙のリボンを掛けた慣習に由来するそうだ。