9/29/2007

振り返り

 今週で、いまのチームも解散である。新しいチームに、いまいる患者さんの病状を引き継がなければならない。通例、同じ学年どうしで引き継ぐので、私のcounterpartとなる人に引き継ごうと、いまの患者さん全員分の引継ぎ資料を作った。ところが、その人は来週は休暇でいなかった。なので引継ぎは、なし。数時間費やした多くの短編達も、まあ、意味ない。
 しかし、いままで担当してきた患者さんの病歴やカルテを見直したり、問題点を再び抽出してそれぞれどこまで介入したかなどを見直すのは、よい振り返りである。また、ぱっと書ける人は、よく考え把握していた人で、書くのに時間かかる人は、把握が十分でなかった人かもしれない。
 つねに、患者さんの病歴・問題点・どこまで進んでいるかなどを言える必要がある。米国の臨床研修が優れていることのひとつは、そのトレーニングを受けられることだと思う。米国人の先生と話していると、それを痛感する。実際、プレゼン、プレゼン、プレゼンである。

引き出し

 米国医師国家試験の勉強で得た知識は、そのあと引き出されずに忘れられたかと思ったら、役立った。抗生剤を変えてからどうにも調子が悪く、むかむかするという男性。薬の影響かとは思ったが、まず肝臓の障害をうたがい診察。肝臓を肋骨の上からたたくと痛がる。もともと大酒家で、肝疾患も他に有していることから、薬剤性肝障害が起こりやすいのかな、と考えた。血液検査や肝臓のエコー検査をオーダーして、カルテを書いていら…。
 出されていたのはメトロニダゾールという抗生剤、そして、大酒家であるという事実。メトロニダゾールは、断酒剤の作用が知られている薬である。これが、米国医師国家試験の対策でよくでてくる知識。断酒剤とは、断酒したい人が、絶対に飲まない、という強い決意と見込みがある場合に、自らの意思で内服するもので、これを飲んだが最後、少しでも酒を口にすればひどい悪酔症状がおこる。
 そんな作用の薬を、大酒家に何の注意も換気せずに飲ませたら…。患者さんは、気持ち悪さをしのぐため酒を飲んで寝るしかない、と思ってがんばって飲んだそうだ。おそらく、もっと知識がフル回転で検索できる人なら、話を聞いた時点で「ははあ、これは」と当てていただろう。ワンテンポ遅れて、カルテを書いているときに気づく。頭を整理しながら、考えながら診察するのは、まだまだ課題である。

9/23/2007

成長せねば

 夜中の対応、いつでも迷う。患者さんの元々の状況がわからないので、といったら言い訳だ。翌朝まで患者さんがもつことが最低条件なので、それをクリアしたなら一応は許される。下手な治療をして副作用がでたら大変だ。しかし、なにもしないわけにもいかない。大げさに対応しすぎるのも、翌朝の笑いの種だ。でも、迷ったら安全なほうを。翌朝、審判をうけて勉強する。それしかない。

9/22/2007

諦観

 人は病気によって死ぬのではない、という言葉を聴いた。はじめは、意味がわからなかった。そのあとで、人は寿命によって死ぬのだ、と続いた。病気になるのも、その治療がうまくいくのも、うまくいかないのも、すべて込みで寿命と受け入れなければ、という意味であった。確かにそう考えなければ、やりきれないところもある。

9/19/2007

生活態度

 怨憎会苦が四苦八苦の1つに数えられているのは興味深い。社会生活をしていればそういう対象がでてくるのは避けられない。少し調べると、この苦は、おどろくべきことに煩悩や執着する自分の心から生まれるという。これを集諦という。苦しみの根源はとくに三毒といわれ、それぞれ貪・瞋・痴という。なかでも瞋は、自分に背くことがあれば必ず怒るような心を言い、痴とは、真理に対する無知をいう。はっとした。いまの自分は、物の道理を知らず、気に入らないことにふくれっ面しているだけじゃないかと。小さい、小さい。しかし、それを受け入れるのは厳しい。これらの煩悩を断ちきる(滅諦)ために、正しい生活態度ですごさねば(八正道、道諦)。

夜中の電話

 ここ数日は夜遅くまで忙しかった。病院に泊まったりもした。11時過ぎに患者さんに処置をすることもあった。そんな時、家族に電話すると、家族を非常に心配させてしまう。電話をにぎりしめ緊迫した面持ちの家族を想像する。こちらは、落ち着いて話をするのだけれど、おそらく動揺してほとんど頭に入らなかったのだろう。電話したあと数分して、病棟に電話があり、もう一度説明した。
 しかし、いくら動揺させても、処置の結果次第で急変することもありえるのだから、早めに伝えるのがよい。あとから、聞いていないといわれるのは、もっと大変なことだ。幸い処置はうまくいったので、それを伝えるため12時くらいにもう一度電話した。前の電話で、「万一の際にはまた電話します」と言ったのでびっくりさせてしまったが、夜中じゅう心配して過ごさせるよりはましとおもって掛けた。

9/11/2007

知識集約型の社交

 最近、職場で慣用句や四字熟語を多用している。いや、最近でもないのかもしれない。自分でも驚くほど多用している気がする。事典などを最近読んでいるわけでもないが、自然に出てくるのはなぜだろう。小さいころに漫画の慣用句事典などもふくめ、たくさん読んだのだろうか。物によっては、学校でこの授業で得た知識だ、とはっきり思い出せるものもある。
 慣用句を多用することで、不思議と周りにウケる。「おもしろいですね」とか「すごいですね」とか言われる。あるいは、患者さんへの説明などでは、きちんとした日本語に聞こえているかもしれない(そういうフィードバックを受けたことはないが)。慣用句を潤滑油にしたコミュニケーション様式で、自分は周りの人とうまくやっている気がする。アメリカに行ってもそれを続けたいので、慣用句の日米辞書のようなものがあれば一冊買って暇なときにめくって読みたい。豊かなvocabularyを。

自分を信じる

 今日は、方針を誤ってしまい残念だった。患者さんを診る前から、この検査(A)をしよう、と決めてかかりすぎた。実際の診察では、その検査で疑う疾患(X)とは別の疾患(Y)のほうがより当てはまる印象を持ったが、そのままその検査をやってしまった。残念ながらAに伴う合併症を起こし、Aはできなかった。あとから、Yに対する検査(B)を行う。BのほうがAよりずっと非侵襲的である。結果、Yであることがわかり、治療して患者さんの病状は改善した。
 今日は、先輩がおらず、自分と後輩たちで診療した。Aという検査は、事前に上司から話に聞いており、「まあとにかく今日はAをするのだな」と鵜呑みにしていた。自分の頭で考えて、自分のみた所見を信じないと、うまくいかない。まず最初にすべきことは、最も患者さんの病気として考えられるものについての検査や治療である。検査は、もっとも身体に負担が少なく、かつ役に立つものを選ぶべきである。それが、よい診療である。
 Sutton's lawである。もっとも考えられる診断を確かめる検査を最初にしなさい、という教えである。Sutton Willieという銀行強盗が、なぜ銀行強盗をするかと問われたときに "Because that's where the money is." と答えたとされている(後日彼は発言を否定しているが)故事による。同じような意味で、"When you hear hoofbeats in Texas, think horses, not zebras." というのがある。肝に銘じねば。

ONとOFF

 母校に、大学時代の成績証明書や、学部長からの紹介文を送ってもらうよう請求した。推薦状も集まりつつある。そんなわけで、あとはプログラム選びをしなければ。アメリカといっても広い。相当広い。東北部のほうがIMG(international medical graduate)をよく受け入れるという。他は、あまり判らない。全米に申し込みまくり、interviewに呼んでくれたら旅行するのも悪くないが。まあ落ち着いて考えよう。
 最近、仕事が終わって家で過ごすとき思う。こういう時間にしたいことが、本当にしたいことなんじゃなかろうか、と。それは、なんだろう。勉強が好きな人は、家で勉強するだろう。仕事が好きな人は、仕事のことを家でもするかもしれない。
 いまは、どちらかというと生活的なことを愉しんでいる。仕事も、夜になってくると、終わるものなら早く終わらせたい。休日も、何か予定をたてたい。講演会やワークショップに積極的に参加する、などはしていない。ONとOFFをはっきりさせる意味では、よいのだろうけど。
 アメリカの病院での研修医生活は、もっとON・OFFがはっきりしている。朝は早いが、とにかく効率よく仕事をして、15時くらいには終わる。終わらなければ、無能な人間とみなされ、あまり続けば上から「ついていけない人」と心配されかねない。では、終わった後なにをしているのか。遊んでいても、いいものか。

9/06/2007

経験と知恵

 学年が上がるごと、直接診ずに方針を立てるようになる。知恵で補わなければ、到底できない仕事だ。夜間に電話を受ける当直がある。主に1年目の先生から、病棟から呼ばれた用件と、彼・彼女が問診や診察をして得られたこと、それについて考えたことを聞いて方針を立てる。とりあえず、電話口で得られるのはそれだけだ。話の内容がどれぐらい信用に足るかも込みで考えなければならない。かといって全例自分が行って聞くわけにも行かない。カルテを見直すこともできない。1つの方針を決めるにも二の足を踏んで、結局電話がだらだらしてしまう。1件に20分以上かかる。後輩にしても、さっさと指示をくれればよいのに、と思っているかもしれない。
 クロスカバーなので、相手チームの患者さんについても、担当者から病状について申し送りを受ける。しかし、それで起こりうる急変すべてを予知することはできないし、患者さんの背景なども把握しきるのは難しい。一つの対策は、日常から相手チームの患者にまで目を行き届かせておくこと。あるいは、コールがあるたび病院に出かけていって、1年目の先生と一緒に診察すること。重症そう・不安があるときには、そのほうが安全であろう。

9/05/2007

注意深い観察

 足の付け根を痛がっている患者さんが来た。骨折を疑ったがレントゲンでは骨折の所見はないとのことだった。足を動かす診察をとても痛がる。結局、骨の詳しい検査をしたら、足の骨(大腿骨)の付け根に異常がみつかり、まず骨折であろうとのことで手術になった。疑ってかかることが重要である。
 肝酵素が上昇しているという患者さんが来た。診察したら、目(白目のところ)が黄色い気がした。黄疸の徴候と思っていたら、血液検査の結果では黄疸のもとであるビリルビンの血清濃度はまったく正常であった。確かに、お年寄りなどでは白目が黄染していることもある。お恥ずかしい。疑ってかかるのも大事だが‥。

9/03/2007

double effect

Thomas Aquinasの著作、"Summa Theologicae"という著作に書かれたdouble effectという概念は、医療倫理学に応用されている。ある行為が、よい効果ばかりでなく、悪い効果ももたらす場合がある。その行為が擁護されるのは次のような時であるという。
1)行為そのものはよいものであるとき
2)行為の意図はあくまでもよいことをするためであり、悪いことをするためではないとき
3)悪い効果がでるリスクを考えても、よい効果のメリットのほうが上回るとき
 どういうことか。末期状態、危篤状態の時に、患者さんの苦しみを取るために高容量の麻薬を用いる場合。呼吸抑制などにより死期が早まることが予想されるときに、これを積極的安楽死と呼ぶか。現在は、これは積極的安楽死ではないと考えられている、ただし、その意図があくまでも善行(苦痛を取るなど)である場合。
 ただし、同じようなことは、戦争において敵国の中心部を爆撃することは、戦争を早期に終わらせるためにやったのであって、市民を殺すためではないという風に正当化されうる。
 しかし、モルヒネが必ずしも量を使っても呼吸停止を起こさないことも知られてきており、そのようなこともあり自殺を禁じるRoman Catholicの指導者達もモルヒネの末期状態での使用に対しては肯定的であるという。