12/18/2007

新地平

 日記にせよ、カルテにせよ、ものを書くのは考えをまとめるよい機会である。カルテなど特に、限られた時間内で得た情報を記載し、考えたことと実際に行った内容、そしてその結果を記載するので、アウトプットのよい訓練ともいえる。私はカルテ記載の簡潔さと十分さについて常に意識してきたので、それが後輩の先生達にもよい影響を与えているようだ。
 最近は、患者さんの心情や受け止め方について記載したり、家族への説明の様子などを記載するのが好きだ。さらに、より一般化して、病気を得ることによる患者や家族の心理変化や、医療ができることとできないこと、などについて考察してwordにまとめたりしている。いままで患者さんの病態や身体面に一辺倒であったのが、シフトしつつある感じである。
 看護師とも、患者がどう感じているか、どのような看護がのぞまれるかなどについて話し合ったりした。いままでの自分にはなかったことだ。後輩の先生方が優秀で仕事の多くをしてくれるからできることでもある。医師の役割について考えることができたという意味でも、腎臓内科ローテーションは意義があった。

12/16/2007

教え

 研修医時代に教わったことは、ある意味「作法」であり「教え」である。それがどういう理由であるか、本当にそうなのか、などについては、ときに批判的考察をしたにせよ、面と向かってつっかかったりはしなかった。
 診察のときにまず眼を触るやつがあるか、触られて負担に感じない手などから診察しなさい(脈をとるなど)、というのは作法である。病状を説明するときに「~がね、~だからね」と語尾に「ね」をつけるのは止めなさい、「まず○○について説明します、そして◇◇について説明します」というように順序だてて話しなさい、というのもマナーである。
 心がけなども学ぶ。知識と技術を得るのがもちろん本分である、しかしその先に必要なのは勇気であると習った。健康を喪失した患者が弱い立場にあることを知り、病院を離れれば患者ごとにちがう社会背景・生活があることを知って接するようにと習った。
 メスの持ち方などと同じようなものかもしれない。いまの病院で思うのだが、ここの先生方は基本的に「教え」「作法」を学ぶという姿勢が希薄である。自ら学び、考えることが異様に重視されているので、批判的考察を表出せずにわかりました、とは絶対に言わない。「ふーん」という感じである。
 こう書いてみると、いまの病院のほうが先輩後輩なく意見をたたかわせる「よい」環境にみえる。まえの環境は、わるく言えば軍隊的、体育会系なところともいえる。私は、そういうものは本来好きではないのだが・・。
 学年にほとんど差がない人を「教える」場合、与えられるのは一日の長で得た、確立していない経験に過ぎない。それでも、生き抜くのには役に立つはずと思って共有しているのである。得られるものはとりあえずもらって、あとから取捨選択してもらうのが効率的と思うのだが。

12/11/2007

学習された無力さ

 うつ病は、きわめてありふれた病気であり社会に与える影響も大きい。今週の医学雑誌が最新の基礎研究の結果を紹介していた。いままでうつ病はセロトニン、ノルエピネフリンという二つの神経伝達物質で説明することが多かった。セロトニンは、おもにムードにかかわり、ノルエピネフリンは意欲や情動にかかわるという。それで、これらが枯渇しないようにする薬がうつ病治療の基本になっている。
 しかしこの薬は一定の効果があるものの限界があるようだ。別のメカニズムもはたらいている可能性がある。雑誌にのっていたのは、ネズミをつかったlearned helplessness(学習された無力さ)についての実験。避けられないストレス下におかれると、ネズミはそこから逃れたり克服したりすることをくりかえした末にあきらめじっとしてしまう。
 この状況をもたらす脳内の仕組みが解明されつつあるという。ventrolateral aqueductal grayという場所でsubstance Pがつくられ、それがnucleus accumbenceという場所で神経細胞のneurokinin1受容体に結合するとGABAという物質が放出され、あきらめムードが形成されるという。まだまだ臨床応用には遠いが、これにかかわる薬ができれば、うつ病をあらたな機序でなおせるかもしれない。