1/27/2014

Medical literacy (aka Google Scholar)

 『おいしい論文のおいしい探しかた』というレクチャをした。これはいわゆる「手弁当レクチャ」なので、私が誰にやれといわれたわけでなし、聴く側にも何の強制力もない。それでも当日はたくさんの先生方が来てくれて嬉しかった。きっとタイトルが魅力的だったのだろう、こんな話は誰もしないだろうから。しかし医師として患者さんによい医療を提供するためには何といっても知識が必要で、だからこそどんな病院にも大なり小なり図書館があり、どんな医局にも医学雑誌が置いてあるわけ。だからmedical literatureの海を渡る力、すなわちmedical literacyは、個人的には医師をやっていくうえで「中心静脈ラインの取り方」とおなじかそれ以上に大事だと思う。

 というわけで、レクチャでは論文を探すもっとも簡単な方法と、その次に簡単な方法を紹介した。最初のもっとも簡単な方法とは、ひとに聞くことだ。研修医なら研修医どうしで聞いてもいいし(これは私が初期研修したところではSHAREの精神と呼ばれている)、指導医に聴いてもいい(こないだ指導医講習会では「研修医の相談は指導医の勲章」という言葉を聴いた)。指導医は全国・世界に広いネットワークを持っているから、たとえ自分が知らなくてもお友達に聞ける。学会などもそのためにあり、腎臓内科で言えばCJASNやAJKDには教育的な記事が多くて助かっている。

 とまあ、「論文を探すいちばん簡単な方法はひとに聞くこと」なんて一休さんみたいなことを言って、実際自分で調べるときはどうするの?それが次に簡単な方法だ。自分で論文を探すリソースはたくさんあるが、私が最もよく使う(そしてもっと知られていいと思う)のはGoogle Scholarだ。私の印象ではGoogle Scholarで検索すると、Pubmedよりも「おいしい(relevantな)」論文を先に返してくれる。「何年以降の論文」という条件をいれるのも簡便だし、「その論文を引用している論文」に飛ぶのもたやすい。そこからPumbedサイトを介して雑誌サイトに飛んで、(もしあなたの病院が購読していれば)PDFをゲットすればよい。

 そのあといろいろ質問がもらえてこちらもやり甲斐があった。なかでも「どんなふうに検索キーワードを選べばいいの?」という質問と「たまっていく論文(PDF、紙)をどうやって管理すればいいの?」という質問がきて嬉しかった。最初の質問だが、検索ワードの選び方には実は英語力が求められると思う。しかし何かアドバイスせねばと思い「論文のタイトルになりそうなのを入れてみたら」と回答した。二つ目の質問だが、わたしは管理しきれないのでもはや論文は引用できるよう「雑誌、年、巻、ページ」だけ書き留めて、必要なときふたたびダウンロードするようにしていると答えた。できるひとはDropbox®とか大容量ディスクとかスキャナとか色々試したらいいだろう。

1/15/2014

忘れられない一言 10

 医師の言葉が患者さんに与える影響は、米国よりも日本のほうが大きいような気がする。たとえば入院治療計画書の入院見込み期間など、医師としてはあくまでも目安としてかなりアバウトに書いているのに、患者さんが「ここ(計画書)に何日間と書いてあるからいついつまで入院なのでしょう?」とおっしゃることは良くある。ならば、医師の患者さんを勇気づけたり希望を与える言葉も大きな影響をもつということだろうか?
 そう考えていた頃に出会ったのが、患者さんからの「患者が言いたいことを医者が言ったら患者は何も言えない」という言葉だ。長く入院してもなかなか良くならない患者さんが苛立っておられるようだったので、長い闘病生活にも関わらずなかなか良くならずお辛いのではないですか、という意味のことを聴いてこの言葉をいただいた。患者さんは諦めずに弱音を吐きたくても我慢していたのに、回復という希望を奪われたように感じてしまったわけだ。
 辛い人に「辛いのですね」と聴くなんて、ちょっとアホみたいだろうか?私はこれが「気持ちを受け止めていますよ」というための最も直接的な方法だと思う。気持ちのそういう部分に触れるので、その結果患者さんが泣いても怒っても全部受け止める覚悟は必要だが。とくに入院が長くなった場合(や予後が良くない場合)、患者さんの気持ち的な部分を避けて病気だけ診ることは、私にはできない。
 だから私は、いままで辛くても我慢していたことを知らせてくれて嬉しかったと伝え、私が希望を引き続き持っていることを訴え、辛い気持ちも含めて一緒にやっていきましょうと話を締めくくった。しかしいま思うと、長い入院治療でたしかに私は根を上げそうになっていたのかもしれない。だからそれをびしっと指摘してくださった患者さんにはいくら感謝しても足りない。患者さんの言葉もまた、医師に影響を与えるということか。幸い患者さんはそのあと快方に向かい退院された。

1/13/2014

忘れられない一言 9

 以前、米国内科学会誌の(なかで私が唯一読む)On Being A Doctorで、「きっと眠れるようになるから」と主治医が言ってくれたから不眠を克服できたという、ドイツの先生が書いた話を紹介した。そのあと、自分にも「先生が『二ヵ月後に会うときには禁煙できているといいですね』と言ってくれたから禁煙できた」という患者さんが現れた。

 こちらこそ、患者さんが「先生が『二ヵ月後に会うときには禁煙できているといいですね』と言ってくれたから禁煙できた」と言ってくれたから忙しい診療における医師としての自分の役割を再認識することができた。それは、希望を与えることなんだと。このprofessionを選んで身に着けていくのは、希望を与える力であり、未来を信じる力。

1/09/2014

切手とおりがみ

 いまいる病院の売店に、切手が売っている。ということは、患者さんが誰かに闘病生活について書き送るということだろうか。患者さんの家族や友人がお見舞いに来たときに患者さん宛てに送るなら、切手は付けないはずだ(そういえば日本の売店には、米国に売っていたGet Well、Sympahyなどの様々なグリーティングカードは置いてない)。
 もし入院したら、誰に手紙を書こう。遠くにいる家族や友人だろうか。どんなことを書くのだろう。お見舞いなら「元気になってね」だが、本人が書くとなると「元気になるからね」だろうか。親しい相手なら「しんどい」「会いたい」だろうか。あるいは同じ病気の人たちで励ましあったりもするだろうか。奥が深い、日本の入院生活。
 それから、売店にはおりがみが売っている。それも、千羽鶴を折るための小さいやつが!私の理解では千羽鶴というのは、お見舞いの友人が何人かで折り集め、入院中の患者さんに持っていくものだ。だとしたら病院の売店で買うことはないだろう。じゃあ患者さんが折っているのか?それも疲れるし、いくら日本の病院は入院期間が長いとはいえ千羽もつくれないだろう。
 だから、この折り紙を誰がなんのために買っていくのか興味深い。もし本当に患者さんが入院中に気を紛らわせるために売っているなら驚きだ。そのうち編み物だのルービックキューブだの数独だのも売られるようになるかもしれない。あるいは、入院中に希望を得られるような他の何か(本とか)。

1/06/2014

忘れられない一言 8

 いま私は、研修医の先生方が患者さんのプロブレムを挙げ、それぞれについて「原因はなに」「どんな治療をしている」「治療に反応しているか」「このあとどうするか(予防もふくめて)」を自分なりに考えられることを目標に指導している。漏れなく診療し全面的に前進させなければ、患者さんはよくならないしよい医療もできないと考えるからだ。

 そして、私の考えるプロブレムには「肺炎」「腎炎」などの病名だけでなく「痛み」「痒み」など症状も入るし、「筋力」「食欲」など機能も入るし、「独居」「大酒家」など社会背景も含まれる。病気だけ治しても、歩けなければ退院できない。そのために看護師さん、薬剤師さん、リハ療法士さん、栄養士さんがおり、相談員さん、ケアマネージャさんがいる。

 そこへきて、よい医療というのはそれだけですか?プロブレムを効率的に解決するだけでいいんですか?という論文(Ann Int Med 2013 159 492)に出会った。論文はいう、Johns Hopkins Hospitalの片隅にはJesusの像、MGHの奥にはエジプトの書記ミイラがあって、近代化する前の病院には人間的な温かみや癒しがあったことを思い出させてくれると。「しかし」と論文は以下のように続く。

[T]he overwhelming experience within the physical structures of technologically advanced hospitals is of power, vastness, and industrial efficiency. They project a technical excellence that seems inconsistent with healing the whole human. They have lost their prior specificity; they are no longer a place where patients can imagine themselves as human beings instead of collections of medical problems waiting to be solved.

 「もはや病院は患者さんが人間としてではなく解決されるべき医学的な問題点の集合としてしか自分自身を想像できない場所になってしまった」という最後にハッとした。病院でもっとも大事なのは患者さんの問題を治すこと。しかし、患者さんが病気をどう受け止めているか、治っていく過程にどのようなことを感じているか、病院で過ごす時間や医療者との触れ合いをどのように意味づけているか、なども無視したくない。

 私とてそれを無視してきた積りはなくて、以前ここでも問題提起して、思いを書き続けている。しかしこの論文を読んで、教育にもっと「全人的医療」の側面を強調しなければと改めて思った。まあ日本の入院期間は長いし、医療者にも優しくて思いやりがある方が多いから、「はい次」みたいな忙しさや非人間性はないが。それから、日本の病院でも出来るいろいろな提案も思いついた。

 たとえば、入院が長い人のところへ行って気遣うボランティアさん、勇気を出させたり癒しを提供する音楽を奏でる音楽療法士さん(米国での経験はここに書いた)、精神的な支えになるチャプレンさんなどがいたらもっと入院生活が意義深くなるかもしれない。祈りの場所があったら助けになるかもしれない。患者さんが闘病メッセージを書けるように紙とペンを置いてあげたらカタルシスになるかもしれないし、それらを文集にして病棟のロビーに置けば、読む人が力をもらえるかもしれない。