読んでみると往診の様子、診察の様子などいずれも興味深いが、もっとも心を打つのは、若い医学士(花房)が、父親(翁)にどうしても及ばないことに気づいた描写だ。花房は言う(以下とカッコ内は青空文庫より引用):
翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫んでいる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。
これに対して花房は、「何かしたい事、もしくはするはずの事があって、それをせずに病人を見ているという心持」で、「始終何か更にしたい事、するはずの事があるように思っている」という。
「これをしてしまって、片付けて置いて、それから」・・。しかし、「それからどうするのだか分からない」。「何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう」。女、種々の栄華の夢・・かと思えば、禅の語録や公案にはまったり、とりとめがない。
そんな花房は、診療所で父の平生をみて「自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事をいい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに」気づいた。
陽明学者・熊沢蕃山(1619-1691)は「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである」と説いたそうだが、父の態度もまた「有道者の面目に近い」ということがわかり、そしてその時から「にわかに父を尊敬する念を生じた」という。
筆者もまた、節目ごとに「それで、どうなのか?」という問いが頭をもたげる。その答えが「道を行え」なのかもしれない。道を行先へのルートと考えると、迷うし、最短でなければイライラする。そうではなく、その時その場所で、「道を行う」のだ。
改めて、自らにそう言い聞かせたい。