5/15/2018

忘れられない一言 47

 病気を生活習慣を改善させることでなんとかしたいと思う人は多い。薬を飲まなくて済むなら、なお結構というわけだ。実際、生活習慣を改善させるよう指導すると外来診療で管理料がとれる。そのひとつが禁煙だが、運動や減塩を勧めるのと違ってこればっかりは患者さんから「いやーなかなか(^-^;)」という苦笑いが返ってくることが多い。

 こういう行動変容について情熱を燃やすのは、総合診療科のマインドを持った人たちが多い印象があるが、腎臓内科医も自分は総合内科医だと思っている。それに『CKDの集学的治療』なんていって禁煙を勧めないんじゃあ片手落ちだということで、私も割とこの話を避けない(成功話はこちら)。

 すると、まあいろんなお話が聞ける(たとえばこちら)けれど、こないだも認知や行動について示唆的な発言があった。

「2ヵ月後お会いする時には、どれだけ吸っていると思いますか?」

 とお伺いしたところ、

「半分にします」

 とおっしゃる。それで、

「半分って何本ですか?」

 とお伺いしたところ、

20本の半分だから、15本

 とおっしゃった。20本の半分は10本だ。半分と言ったものの10本は無理と思ったのか。いずれにしても、この発言だけで禁煙の意思と喫煙の欲求のあいだで激しく相克があることが伝わってくる。

 完全喫煙が100で、1本でも吸っていたらゼロって白黒な世界じゃない。現実はもっとファジーで、マーブルで、カラフルで、まるで人生そのものだ。





忘れられない一言 46

 腎臓内科医にとって、むくみが減って皺ができるのは、よいことだ。消化器外科医にとって、手術した患者の放屁を聞くのがよいことであるように。

 しかし、患者さんにとって、とくに女性の患者さんにとっても皺が祝福すべきことかと言うと、そうでもない。

 だから、「むくみが減って皺が寄りましたね」なんて満面の笑顔で言って、「皺ができたなんて嫌なこと言わないでよ!」と怒られないよう注意が必要だ。

 要は、相手の立場にたって考えられますか?ということだ。医療者のゴールと、患者のゴールは、多くの場合近くて似ているが、まったく同じではない。





忘れられない一言 45

 家族構成を知るのには、"Who do you live with?"の直訳である「誰と一緒にお住まいですか?」という質問が便利だ。すると、配偶者と住んでいたり、母と一緒に住んでいて父は他界していたり、子供一家と住んでいたり、孫と住んでいたり(子はいなかったり出て行ったり)する。

 家族が同席しているような場合は、その家族と一緒に住んでいる場合もあるし、そうでない場合もある。あるいは、同席しているのが家族ではないこともあるので、まず確認することが必要だ。いつも配偶者ときていた人が別の人ときた場合に、理由をたずねると

「(配偶者は)キュウシしましたので

 という答えが帰ってくることだってあるかもしれない。キュウシが急死だとわかるのに少し時間がかかるくらいはまあ仕方ない。でも、動揺を見せずにその時の様子、葬儀のこと、亡くなった後の生活についてお話を聞いたり共感し、診察をつづけるのがプロだ。

「自分が死んだら、悲しんでくれる人はいるのかな?」

 などと考えるのは、診察が済んでからでいい。




 

5/10/2018

ところ変わって変わらないもの

 ABIM(米国内科専門医資格を管理するところ)による、資格維持のための教育モジュールを解いて、最初は感動したが、だんだん悲しくなってきた。

 ABIMの専門医資格といえば、これがあれば米国では一生やっていけるという大事な資格であると同時に、その更新制度については改革が会員の反対があった経緯がある。

 しかし、反対後に極めてリーズナブルな再改革がなされ、現在では何年ごとに一定の単位(MOCポイント)をとればよいことになった。

 単位はJournal ClubでもGrand Roundでも、本当にさまざまな教育活動が含まれるようになった、そのひとつがABIMがやっているモジュールだ。

 各科ごとに各年のupdateモジュールがあるが、何度トライしてもよいので、色々調べて勉強してください(こういうのをオープン・ブックという)、となっている。

 その具体的な内容はもちろん開示できないが、とにかく、非常に勉強になる。ABIM資格を持っていて、本当によかったと思う。

 ではどうして悲しいことがあるのか?それは、多くの治療が日本でまだ認可されていないからだ。

 もちろん、高齢化とか透析とか医療制度とか、日本には日本で先を行っている分野がある。抗IL-6モノクローナル抗体のように日本にしかない薬もある。
 
 日本は日本だし、米国は米国だ。まあ、それでいい。それでも、日本でも米国でも(別の国でも時代でも)変わらないものがあるはずだから。