3/12/2021

「にもかかわらず」と「だからこそ」

 時節柄、診療で「にもかかわらず」と感じることが多い。隔離されている患者にもかかわらず、話をきく。防護服を着ているにもかかわらず、聴診する(重度の心臓弁膜症がみつかったこともある)。外来で透明プラスチック膜を隔てているにもかかわらず、触診する(虫垂炎がみつかったこともある)。

 これを「クールなプロフェッショナリズム」と理解してきた(こちらも参照)が、最近は逆に考えるようになった。きっかけは、2001年の映画『アイ・アム・サム』である。ご存知の方も多いだろうが、映画ではサムがルーシーの父親として適格かどうかが問われる。そして、ある証人がこう答えるシーンがある。

I know that you all think she's as smart as she is despite him, but it's because of him. 

  そうか、マイナスと思えることは実はプラスなのかもしれないな・・などと考えて日々を送っていたら、昨日のニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM 2021 384 888)にもこんな表現がみられた。

Because of their personal experiences, physicians with mental disabilities can make important contributions to health care.

 「ピンチはチャンス」、「blessing in disguise(逆境・試練にしか思えないが実は祝福・恩寵なこと)」というイディオムにもなっているぐらいだから、発見者づらして書き立てることでもない。でも、そういうことを経験すると、リアルに知るというか、実感が湧く。



こちらより引用)




12/09/2020

感応外来

 患者の話を聞いて「そうなんですね、私も・・」と自分の経験を伝える医療者もいれば、伝えない医療者もいる。筆者は典型的な後者である。

 患者から見聞きするさまざまな悲惨さや過酷さを、私達が経験したことがなかったからといって、それらに共感できないわけではない。逆に、経験したことがあったからといって「患者の感じた苦しみ」と「私が感じた苦しみ」は同じではない。

 大切なのは、「患者にとってどうであるか」を尋ねたうえで、「それはきっと大変に違いない(経験したことはないけれども)」と、脳や心の同じ部分を光らせることだと思っている。
 
 しかし、こないだちょっと大変な状況の外来で、思わず戒めを解いて「じつは私も・・」とやってしまった。

 すると、自分の身体によい意味の鳥肌が立ち、細胞と細胞のあいだを温かい何かが流れていく感じがした。相手もそうだったかはわからないが、とても前向きに診察を終えることができた。

 41歳で末期がんのため死去したボストンの病院弁護士ケン・シュワルツ氏は、医療者が「ひと」として患者に心を開くことを「医療のルビコン河を渡る」と表現し、それが苦しい闘病生活の中で何よりも有難かったと記している(こちらも参照)。

 何でもかんでも「私も」と相槌を打つのは不適切にしても、効果的に用いるのは、ありかもしれないと思った。



YouとMeで「ゆめ」
こちらから引用)


9/16/2020

天も地も動かせなくても

 急性期病院にいれば必ずついてまわるのが、転院調整だ。しかし医師としては、ご家族とご本人にお話し、転院受け入れをお願いする手紙を書いたら(こちらも参照)、そこから先は調整を待つことになる。

 そのために(名前は違っても)どの病院にもあるであろう「退院支援チーム」は、なんとかしてくれる心強い存在なのであるが、きょうはこの「何とかする」に関連する英語表現について紹介したい。

 それは、"move heaven and earth"である。たいていは仮定法で「~するためなら何でもする(would move heaven and earth to do ...)」と用いられる。

 2017年ディズニー映画『リメンバー・ミー(英題:Coco)』でエルネストがヘクターをだまして毒を盛った杯で乾杯するときに"I would move heaven and earth for you, mi amigo(アミーゴのためなら天も地も動かす)"を思い出される方もいるだろう。

 あるいは、80年代ポップがお好きな方なら、英国歌手リック・アストリーの"Together Forever"(1987年)に出てくる"Don't you know I would move heaven and earth to be together forever with you"を思い出すかもしれない。

 しかし「天も地も」なんて、すこし古臭いというか、芝居がかかっている気がする。それで由来を調べると、旧約聖書で万軍の主が"In a little while I will once more shake the heavens and the earth, the sea and the dry land"と言ったことになっていた(ハガイ書2章7節)。

 筆者はまだ「1日もはやく退院を!」という立場にはないのだが、患者さんや家族のたっての希望がある場合には、「天も地も動かしてなんとかしてください!」と言いたくなるかもしれない。まあ、その際には自分で連絡するだろうが。




映画『天と地と』(1990年)



 

9/09/2020

トトロの教えてくれたこと

  『ふたつよいこと、さてないものよ』と喝破したのは河合隼雄先生(『こころの処方箋』、1992年)だが、同じことを『となりのトトロ』(映画公開は1988年)エンディング・テーマから教わった。

 ほかでもない、曲の最後に繰り返される「トットロ・トットーロ」のことである。下図のように、コードはメジャーからセブンス、セブンスからディミッシュト・セブンス、さらにマイナーへ移り変わる。



 
 最初のFメジャーだけなら、なんの心配もドラマもない。それがセブンスになり「おや?」と変化がうまれる。一つ目(1行目後半)のセブンスは歌詞がCで始まり長調風だが、二つ目(2行目前半)はB♭ではじまり短調を予感させる。

 そしてそこから、一陣の風のようにディミニッシュト・セブンスが吹き込み、Dマイナーへ。二行目はルート音(ベース音)もC→C♯→Dと半音階で進行し、森の気味悪さを暗示するかのようだ。そしてふたたび、1行目のFメジャーにもどる。

 このが繰り返される様子は、筆者にはまるでサインカーブのようにすら思える。また、このマイナーコードがあるからこそ、人生が味わい深くなるのかもしれないと思えてくる。少しの不安、少しの恐怖を乗り越えることによってである。


 同曲歌詞「もしも会えたなら、すてきな幸せがあなたに来るわ」ではないが、子供のときにだけ会えるはずのトトロに、はじめて会えたような気がした。ありがとう、トトロ(と久石譲さん!)。


引用元はこちら


忘れられない一言 68

 一日に何十回もやっている達人が条件のよい血管を刺す時でさえも、「弘法も筆の誤り」ということがある。まして、そこまでの達人でない場合や条件がよくない場合はなおさらだ。

 しかし、患者さんとしてはもちろん失敗してほしくない。それでだろうか、時には刺す前に、「失敗したら、院長呼ぶよ」と言われることもある。

 院長を呼ぼうが呼ぶまいが何とかしなければならないことに変わりはない。しかし、やはりこう言われるとちょっと気が引き締まる。かといって「失敗しても怒りませんから安心してください」と言われたら気が抜けるのかというと、そういうわけでもないのであるが・・。

 じつは筆者も、健康診断で採血される際など「うまく行きますように」とひそかに祈っている。誰を刺すときにも、何を言われても(言われなくても)、刺される相手はそう思っていると自覚して、ベスト・ショットを心がけるよりない。



Pat Betanar ”Hit Me With Your Best Shot”
(引用はこちら




8/24/2020

忘れられない一言 67

 森鷗外といえば、千住に住み橘井堂医院を開業する父を手伝っていたこと(鷗外とは、「鷗の渡しの外」を意味するペンネーム)はよく知られているが、当時の思い出を1911年に『カズイスチカ』として三田文学に発表していたことは、知らなかった。

 読んでみると往診の様子、診察の様子などいずれも興味深いが、もっとも心を打つのは、若い医学士(花房)が、父親(翁)にどうしても及ばないことに気づいた描写だ。花房は言う(以下とカッコ内は青空文庫より引用):

翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫んでいる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。

 これに対して花房は、「何かしたい事、もしくはするはずの事があって、それをせずに病人を見ているという心持」で、「始終何か更にしたい事、するはずの事があるように思っている」という。

 「これをしてしまって、片付けて置いて、それから」・・。しかし、「それからどうするのだか分からない」。「何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう」。女、種々の栄華の夢・・かと思えば、禅の語録や公案にはまったり、とりとめがない。

 そんな花房は、診療所で父の平生をみて「自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事をいい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに」気づいた。

 陽明学者・熊沢蕃山(1619-1691)は「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである」と説いたそうだが、父の態度もまた「有道者の面目に近い」ということがわかり、そしてその時から「にわかに父を尊敬する念を生じた」という。

 筆者もまた、節目ごとに「それで、どうなのか?」という問いが頭をもたげる。その答えが「道を行え」なのかもしれない。道を行先へのルートと考えると、迷うし、最短でなければイライラする。そうではなく、その時その場所で、「道を行う」のだ。


 改めて、自らにそう言い聞かせたい。





 

7/09/2020

忘れられない一言 66

 腎臓内科外来には、健康診断の異常で初診される方も多い。異常とは腎機能(血清クレアチニン値、eGFR)や蛋白尿のことだ。まず外来でできる精査をして、病状が安定していれば、経過観察でよいこともあるし、再診が必要のないこともある。

 しかし、患者さんが持参する結果表には、ほかの異常が記載されていることもある。たとえば、コレステロール値などだ。こうした場合には、そのリスクを説明したうえで、生活改善・投薬治療などを一般内科で受けられることをお伝えする。

 以前、そんな説明をしていたら、患者さんが「サプリを飲みはじめたところなので、次回の健診でも高かったら受診も考えます」と仰った。それじたいは、珍しいことではない。ただ、そのあとのこんな一言が、心に残った。

 コレステロールを下げる薬なんて、ないんだと思ってました。

 これは、まずいと思った。患者さんがではなく、医療者がである。コレステロールほど治療薬の種類が充実して、効果も確立している疾患もないことは、医療者には明らかでも、社会の隅々までは伝わっていないということだ。

 テレビや新聞で「(この製品で)コレステロールを下げる効果が確認されました!」と宣伝された際には、「薬ならもっと下がります」とは宣伝されない(もちろん、細かい字では明記されているはずだが)。

 患者さんにお話したところ、「サプリは高いし、病院の薬でなおせるならそのほうがよいです」と安心された。ただ、せっかく買ったサプリはもったいないので、飲みきってからにすることになった。


(マザーグースより)



 

6/23/2020

医療者側のアドヒアランス

 薬が効かないときに、アドヒアランス(患者さんが処方の通りに飲めているかどうか)を確認するのは、外来診療の基本。しかし入院診療では、あまり問題にならない・・・と思っていた。

 しかし、入院診療といえども完璧ではない。診察するときベッド上に薬が一粒転がっている、などということは時々ある(「お昼はこれを飲んでくださいね」と渡しても、患者さんが落としてしまうのだろう)。

 また、点滴なら安心なわけでもなく、たとえば血管外漏出を起こしていれば、薬は皮下組織に炎症を起こすだけで身体に行き渡らない(精密持続点滴で「押し輸液」がない場合、流量が少ないため数時間経たないと気づかれないこともある)。

 「なにが」「どこから」「どれだけ」行っているのか。それが、ちゃんと入っているのか、入っていないのか。治療している「つもり」にならぬよう、しっかり確認する必要があるなと痛感する。



アドヒアランスを阻むさまざまな要因
(Patient Preference and Adherence誌より、doi:10.2147/PPA.S86719)






 


5/25/2020

忘れられない一言 65

 米国で内科研修医をしていた頃、いまでも師匠と仰ぐ循環器科指導医(こちらも参照)が、回診でこんなことを言った。

Whatever your answer is, the next question is going to be "why?".(君の回答が何であれ、次の質問は「なぜ?」だがね)

 この一言に、「答え自体よりも、それに至る思考過程が大事なんだ!」と、筆者は感銘を受けた。教育回診は、発表者の思考過程を改善させることが主な目的だ。回答者が黙ってウンウン考えていては、改善させることはできない。

 いま日本でどうにか指導的役割を果たしながら、師匠の言葉を裏返して使うことがある。「あなたは、どうしますか?」と質問した時に、「Aにはこのような利点や欠点があり、Bには・・」と巡り回答がなかなか決まらない時だ。

Say your answer first, and tell me why.(先に答えを言って、そのあと理由を述べてください)

 何事においても「AかBか」で悩むには、人生と勤務時間は余りにも短い。「どちらでも」ではダメで、AならA、BならBと決めなければならない。そのためには、①Aでよいリーズナブルな理由を挙げ、②Aがダメならどうするかを説明できれば十分だ。

 そうすれば指導する側も、「Bが好きだから」などというパワーゲームでその回答を崩すことはできなくなる。あるいは、「Bが作法だから」といった理屈を越えた理由でAを覆すなら、それを明確にできる。


 やはり、師匠のいうように、すべては思考過程次第ということか。





 

5/12/2020

橋の大切さ

 患者さんに病状説明するときに「録音していいですか?」と言われて気を悪くする医師はまずいないだろう。専門的な話を一度で理解する(さらに、それを他の家族などに伝える)のは難しい。逆に「録音はしないでください!」といえば、やましいことがあると勘ぐられても仕方ない。

 では、患者さんに「録音していいですか?」と言われずに録音されていたとしたら、どうだろうか。医師は戸惑うだろう。先ほどとは逆に、「相手側にやましいことや悪意があるのではないか?」と勘ぐってしまうかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。

 自らに「日頃から録音されてまずいような診療をしているか?」と問い直してみよう。そして「そんなことはない!」と信じているなら、堂々としていればいい。そもそもカルテだって患者さんのもので、誰にいつ読まれてもよいつもりで書かなければならない。

 診察や病状説明だって、同じことだ。

 さらに、疑心暗鬼を超越すると、相手を理解しようという気持ちが生まれる。「録音していいですか?」と言えない人は、そうさせる何かがあったのかもしれない。相手を信じられないほど、心配で心配でたまらないのかもしれない。怖いのかもしれない。


 人間関係には、そのように橋をかける気持ちが大切だと思う。