12/24/2014

感謝

 今日はクリスマスイブだが、そんな聖夜にも当直している医師と看護師さんたちがいる。そんな彼らを思って、ケンタッキーフライドチキンのボックスとホールのチーズケーキを一つずつ、ERとICUに渡してきた。有難うと言ってとても喜んでくれたが、有難うといいたいのはこっちだ。こんな私にも役に立つことがあると思わせてくれるのだから。それにしても私のERとICUへの愛情は初期研修時代からの筋金入りだ。看護師さん達がずばぬけて献身的で有能で素敵だから、惚れるのも無理はない。

12/04/2014

Healerへの道

 このあと、理想のhealerは社会全体を癒す存在、社会的弱者を守る存在でなくてはならないなどとつづいたあと、最後に著者によるhealerの祈りで本書は締めくくられた。Healerへの道は遠い。しかし高みを目指さなければならない。著者はドンキホーテの言葉を引用しているが、この言葉は私を奮い立たせた。Osler卿がドンキホーテを読めと薦めているのも納得だ。

 It is the mission of each true knight. . .
(それは真の騎士それぞれの使命だ...)
 His duty. . . nay, his privilege!
(彼の義務、いや特権だ!)
 To dream the impossible dream,
(不可能な夢を夢見て、)
 To fight the unbeatable foe,
(倒せない敵と戦い、)
 To bear with unbearable sorrow,
(耐えられない悲しみに耐え、) 
 To run where the brave dare not go,
(勇敢なものさえ敢えて行かないところを駆け、) 
 To right the unrightable wrong.
(正すことの出来ない不正を正す!) 
 . . . To love, pure and chaste, from afar,
(遠くから思慕し純潔と貞操を守り、) 
 To try, when your arms are too weary,
(腕が疲れて動かないときにもあきらめず、) 
  To reach the unreachable star!
(つかむことの出来ない星をつかむ!)

Healerと患者の関係

 Healerは患者を心からケアし、つねに患者のケアに集中し、助けるために何も出来ないとしても害は与えてはならないと知っている。患者のケアのためにすべての患者について一歩踏み込んで学ぼうとし、また患者のケアにたずさわる全ての人からも学ぼうとする。よく観察し、システマチックで、熟考し、注意深い。一人で独立して考えることが出来、エビデンスに基づいた治療を個々の症例にあわせて最も適切で効果的なやり方で行うことが出来る。
 非常事態にも任務を動じずに行うことが出来る。そう簡単にはまごついたり動揺したりしない。患者と取り交わしたすべての情報を秘密にする。患者が医師の言うことを理解できるようにし、患者の言うことも理解しようとする。病気を持った誰かを診療するのであって、単に病理プロセスだけを診るのではない。なにかを勧める時には節制と謙遜をもってする。食事、生活、運動など自然の力を借りた包括的な治療計画をたてることが出来る。
 これも著者は医学生に質問していて、その回答は患者の話を聴く、よく聴く、さえぎらない、共感を持って患者を接する、患者を大事にする、素晴らしいラポールを築く、全般的にユーモアのセンスがある、患者が居心地よくいられるように接し、対等で双方向の関係が持てる、感情面のニーズにも応えられる、恐れと不満を希望と行動に変えることができる、正直である、信頼できる、患者を人としてみる真の関心を持っている、などであった。

Healerとはどんな人か

 医師が医師なのはtechnicianではなくhealerだからだと言ってもよいだろうが、いざhealerとはどんな人かと言われると定義があるわけではない。だから身近なロールモデルを参照したり、古今東西のすぐれたhealerについて読んだりするわけだが、healerを構成する要素のおよその束みたいなものはあって、本書でも紹介されている。

 すなわち、人間性に真の関心を持ち、人類同胞のために尽くすことほど崇高な職はないと信じて、道徳規範となり、利他的に善を施すため医療を行う。患者だけでなくその家族、知人、そして自分自身も大事にしてあげる。どんな場面でも丁寧で、礼儀正しく、親切だ。最高のhealerになるためなら物欲から離れることが出来るいっぽう、謙虚で医のアートを知り尽くすことは出来ないと知っている。

 著者は医学生にもhealerがどんな性質を持った人か聴いてみたところ、共感的で、無私の精神で、与えることを悦び、人として魅力的で、勤勉で、思慮深く、正直で、智恵を持ち、理性的であると同時に現実的で、理解を示し、辛抱強く、好奇心があり、広い視野を維持でき、心の広い人だという結果だった。

Physician Heal Thyself(汝自身を癒せ)

 「Full potentialで働く」を日本語で「全力で働く」とか「100%の力で働く」と訳すと、なんだかその人は無理をしているように感じられるのは私だけだろうか。そのニュアンスの違いが、この節「Physician Heal Thyself(汝自身を癒せ)」に表されている。要は自分の健康を守れない人が人の健康を守れないということだ。予防できる病気にかかって体調を崩すのは馬鹿げていると著者は言う。そして自分で自分の健康管理をするのはいいが、自家診療(自己診察、家族の診察)は客観性を欠き質が落ちるので信頼の置ける主治医を持てと。

 また、患者のケアに執着しすぎて燃え尽きたり、患者と密接になりすぎてストーカーや脅迫されたり命の危険にさらされたりしないよう自分を守ることも大事だ。著者は理不尽に患者からメール、電話、直接に苛まれ、診療拒否を試みたが失敗し、州の医師会に問い合わせて紹介してもらった弁護士を頼って患者が近づけないようにした経験を書いている。後にこの患者の行動は精神疾患の前触れだったとわかった。さてこれで第八章は終わり、終章に続く。

忘れられない一言 26(aka the true poetry of life)

 医師として働くことは、自分の得た知識と経験をつかって人のためになり、尊敬されお金にも困らないが、勤務時間もながくストレスもたまりきつい仕事でもある。時にはほかの職業で楽をしてお金もたくさんもらえる人がうらやましく思えたり、そもそも自分はどうしてこの職業を選んだろうと自問することもあるだろう。そんな時に、Osler卿がこんなことを言っている。

Nothing will sustain you more potently than the power to recognize in your humdrum routine, as perhaps it may be thought, the true poetry of life - the poetry of the commonplace, of the ordinary man, of the plain, toil-worn woman, with their loves and their joys, their sorrows and their griefs.

 患者(と家族)の人間サイドに気づくこと。医師こそは患者の心の部分、ソフトな部分を知る特権を持っている。これを助けにすれば前向きに医師としてやっていけると著者は言う。そのために、患者(と家族)とのやりとりで得たヒューマンな部分を日誌に書き記すのがなお良いと著者は言い、これについては以前にも触れた。私の「忘れられない一言」シリーズもそこに影響されて始まったものだ。

12/01/2014

医療過誤 2

 患者が訴訟を起こしたからといって、必ず裁判になるわけではない。裁判で争われるべき違法性、またそのような事実があると認められるとは限らないからだ。だから、たとえ患者が訴えても被告にならないようにすることが最善だ。次に、万一被告になってしまったら、自分を弁護してくれるチームをいかに効果的にアシストするかを知ることが重要だ。
 患者(と家族)はおおくの場合に、治療の一連の流れのなかで起きた結果に驚いて「訴えてやる」となる。誤診された、診断を見逃されたと感じたり、悪い結果に対する不満感情ともいえる。もし患者(と家族)が患者の元々の状態が悪かったうえでのことだという認識を了承していたり、医療が完璧でないことに気づいていてくれたら、彼らはそこまで驚かないかもしれない。
 医療過誤訴訟であなたを守ってくれる最も大切な「防具」は何か?よく知られたことだが、カルテだ。しかし、逆にカルテは患者側があなたを攻撃する最大の「武器」にもなる。開示されたカルテは患者側の代理人が別の中立な医師のところに持っていって、そのうえで一字一句調べられ、その医師が過失・厳重責任・不法行為がなかったかの意見を述べるからだ。カルテをあなたを刺す剣ではなくあなたを守る楯にするには、どうすればよいのだろうか?
 それには①明確で②正確で③タイムリーなカルテを、忙しい臨床のなかでも「これくらいはできるでしょ」というリーズナブルな最善の労力を払って書くことだ。ひとりひとりのカルテを長編小説にする必要はない。要点をおさえたカルテを書くことだ。診たことを書く(診なかったことは書かない)、したことを書く(しなかったことは書かない)。とくに患者、家族、コンサルタントとのやりとりは、要点を押さえて書くことが求められる。
 こうして書いたカルテは、まずなにより保存する(紛失しない)。そして言うまでもなく重要なことだが、いかなる状況でも改ざんしない。これが見つかったときあなたのキャリアには…(恐ろしいことが起こる)。万一編集するときには、編集したことを明示し、その理由と編集日時もはっきりと書くべきだ。
 万一患者が訴えを起こしたら、いちはやく自分の医療過誤保険者に知らせることだ。患者側は、訴えを起こした時点ですでにあなたのカルテを読み込んで訴訟に勝てるという根拠を握っているのだから、のほほんと構えている余裕はない。弁護団を早急に用意してくれるようにお願いすべきだ。不安にかられて誰彼かまわず打ち明けたくなるのは本能だが、自分の弁護人以外にはするな。著者は"loose lips sink ships"と言っている。
 一方弁護人に対しては真実を率直に包み隠さず述べよ。たとえ真実が「醜く、いいかげんで、悪い」ものであっても、弁護人はあなたを弁護することを一番に考えてくれる存在なのだから。そして、客観的に振り返って自分の治療が「標準の治療」から外れていなかったこと、過失と患者の害に因果関係がないことを医学的に立証しようと最善の努力をしろ。弁護団にあなたの医学的な見解を述べることで、あなたは弁護団に貢献できる。というか、この裁判で失うものが最も大きいのはあなたなのだから、自分にできることは全てしなくては。そして、ながい法廷闘争のあいだ、弁護団に質問に答えてもらったり弁護戦略を相談したり、密接な関係を維持しろ。
 医療過誤は起こる。いつどのようにおこりやすいかを知り、患者(と家族)とのコミュニケーションを良好に保ち、緊急で重大な診断も率直に話し合い、心配になったら医療訴訟保険者にすぐさま連絡を取り、弁護団を召集してコミュニケーションを密接にとることがマスト(must)だ。そうすればyou will survive!と著者は言っている。私は在米中に訴訟に巻き込まれたことはないが、長く臨床していれば避けられなかっただろう。経験ある著者のアドバイスとして肝に銘じよう。

医療過誤 1

 医療過誤を避けてつねによい診療を選択できるに越したことはないが、医師は経験数と実力に関わらず、よい診療をして診療録をつけていても、それでも訴えられる。この本によれば医療過誤は人身傷害(personal injury)、不法行為法(tort law)の範疇にはいり、①過失(negligence、損害を与えるかもしれないと予想できるにもかかわらず不注意によりそれを回避しないこと)、②厳格責任(strict liability、たとえ過失や悪意がなくてもその行為の結果発生した損害に責任を問うこと)、③故意による不法行為(intentional torts)に分類されるという。
 医療過誤は患者が医療者が過失を犯したと主張した場合に起こる。過失を証明するには、①裁判所はその医療者が、彼または彼女と同等のトレーニングと経験をもった人が類似した状況でするであろう標準的な治療から逸脱していることと、②その結果患者に害が及んだことを示す必要がある。それでたいてい医療訴訟では鑑定人(expert witness)として呼ばれ証言させられる。なにが「標準的な治療」なのかは医療職ギルドによって規定されるが、このように身内の意見が大きな役割を果たすのは医療訴訟の特徴ともいえる。
 医療過誤がおこったらどうするかを説明する前に、医療訴訟は起こらないに越したことはないわけで、著者はそれについて強調している。言うまでもないことだが、鍵はよい患者(と家族)とのコミュニケーションだ。誰だって間違えは起こすが、医師・患者関係が良好に保たれていれば、それが訴訟に至るのはごく一部だ。それは、おおくの場合に患者は医師を尊敬し信頼しているからだ。そのためにも、満足のいく医師・患者関係を平素から維持することは、よい診療をおこない正確なカルテを書くことと同じくらい重要だ。
 しかし、初診で命に関わる疾患を診断した場合など、コミュニケーションをとる時間が十分にとれないこともあり、このような場合は訴訟に至りやすい。たとえ時間がなくても、いいづらくても、患者(と家族)に事の重大さを説明し理解を共有することは医師の責任である。これを著者は"hanging crepe paper(ちりめん紙を掛ける)"と比喩している。これは米国で昔、病人の死期が迫ると家の前に黒いちりめん紙のリボンを掛けた慣習に由来するそうだ。

11/27/2014

The 25 Rules of Considerate Conduct

 次に紹介されていたのが、Johns Hopkinsが立ち上げたCivility Projectの産物、The 25 Rules of Considerate Conductだ。Healing skillsを磨きたいなら、これらを意識して診療(のみならず生活)するとよいだろう。

  1. 注意を払う:Hippocratesの「全てを観察せよ」という教え、Osler卿の「五感すべてを使って診療せよ」という教えの流れを汲むものと理解せよ。
  2. 相手を大事にし尊重せよ:たとえば、患者の付き添いがいたとき、無視せず彼らにも自己紹介し患者との関係を知るよう努めよ。
  3. 最善を考えよ:「あ~また鎮痛麻薬がほしくて来たのか」などと最初から決めてかからず(実際そうでも)最初は希望と楽観を持って患者と接しろ。
  4. 聴け:よく聴けば診断もつくというものだが、それ以外、医療チーム間のコミュニケーションにおいても「聴いているよ」と示し傾聴の技術を向上させることが重要だ。
  5. 受け入れよ:文化価値観の差異を意識し尊重することで診療の質が向上する。
  6. 優しく丁寧に話せ:たとえば「どうされましたか?」で始め「他になにかしてあげられることはありませんか?」で終わるのは丁寧な問診だ。
  7. 悪口を言うな:患者の悪口、医療者の悪口は無論、人のケアの悪口も言うな(悪口と建設的な批判を受け入れあうこととは別だ)。
  8. ほめよ:患者さんが何か少しでも健康のためになったことをしたならそれを認めてほめろ。心理学者Carl Rodgersがいう「unconditional positive regard(無条件によいとみなされること)」は患者の診療体験をよいものにする。
  9. どんな些細な「いやです」も尊重せよ:医療者のレコメンデーションに患者が同意しない時には、患者の意思を尊重しなければならない。ただし、同意しなかった場合に起こりうることを十分に理解してもらうこと。
  10. 人の意見を尊重せよ:プライマリケア医とコンサルタント、それぞれの立場と専門性を尊重してこそ良いケアが提供できる。
  11. 身体に気をつけよ:自分が健康でなければ人を健康にすることはできない。
  12. 同意せよ:おたがい同意できないときにも、同意できないということを同意することはできるわけで、その際に悪態をついたり礼を欠いたりしないようにせよ。
  13. 静かにせよ(そして沈黙を再発見せよ):沈黙によって患者に返答の十分な時間を与えることで、こちらから沈黙をさえぎっていては得られなかった情報が得られることもあるだろう。話しにくいことを話してもらえるように時間を与えることもまた礼儀と知れ。
  14. 人の時間を尊重する:「待たされる」ことほど患者満足度を下げるものはない。たとえそれが医療現場の現実であっても、自分の遅刻は問題外だし、度を過ぎたoverbookingも避けるべきだ。それでも全ての手を尽くしても遅れたならば、誤ることだ。この筆者は自分の主治医に待たされ外来をrescheduleすることになって不満だったが、その晩に主治医から謝罪の電話を貰って彼を尊敬し満足したという。
  15. ひとの空間を尊重する:患者の病室は患者のスペースなのだから、入っていいか、座っていいか、診察を始めて良いか、一声掛けるのが礼儀と知れ。
  16. 心の底から謝罪せよ:間違えが起きたとき、医師は説明や情報提示のみならず患者(家族)の謝罪の要求にもできる限り応えるべきである。
  17. 自己主張せよ:患者のために主張すべきときは主張せよ、たとえそれが困難であっても。保険会社が拒否した治療でも必要と思ったらアピールすべきだし、コンサルトしたら患者情報がコンサルト先に正しく十分に伝わったかを確かめるような、going the extra mile(もう一歩を踏み出す)医師たれ。
  18. 不要な個人的質問を慎め:患者の個人情報を得る特権を乱用することが許されないのは言うまでもない。
  19. 患者をゲストとして扱え:とくに高齢者や障害者でアシストを必要とする患者に対しては、優しさと配慮をもってそうせよ。
  20. 配慮あるゲストとなれ:往診するときには、医師の都合だけでなく往診先の都合を考えて時間を設定し、往診先に着いたら椅子に座るの一つとっても患者環境に踏み込んでいるという敬意を払ってしろ。
  21. よほどのことがない限り患者に個人的なお願いをするな:医師・患者関係においては医師が圧倒的な力を持っている。職権乱用にあたるお願いをするな。
  22. ぐだぐだ文句を言うな:医療現場は不満のもとがいっぱいかもしれないが、それらに文句をいう隙間はないし、ネガティブな態度は診療の質を下げる。
  23. 建設的な批判を受け入れ合え:患者、同僚医師、多職種、指導医、皆が多くの教訓を教えてくれる。批判しあえる環境で人は伸びる。ただ受け入れるときには客観的に受け入れよ。英語でよく"don't take it personally"と言うが、反省すべきを反省して次に活かせばよいのであって、ふてくされたり凹んだり諦めたりするべきではない。
  24. 環境と動物を尊重せよ:人だけでなく。Schweitzerのいう「生命の尊厳」だ。動物実験は適切におこなわれているか、産業廃棄物は適切に処理されているか。
  25. 責任転嫁するな、そして人を責めるな:患者が怒っているときの対処法に「トリプルA」というのがある。
  • Acknowledge:患者が怒っていることを「私はあなたが怒っていることを認識していますよ、わかっていますよ」というメッセージを伝える。
  • Accept:責任が自分にあるのなら、それを認めて受け入れる。
  • Amend:状況をできるだけ修繕する。

 それでも解決しなければ訴訟沙汰に至ることも有るだろう。この本の第八章第一節はそれについて書いてある。見出しも「医療過誤の定義」「よくある医療過誤」「あなたの弁護士があなたに知ってほしいこと」など、ベテラン医師の経験をもとにした刺激的なものだ。早く先が読みたい。

Etiquette Based Medicine

 この本の第七章はcivility(礼儀正しさ)についてかかれている。日本でも医学部はしらないが初期研修では接遇講習を取り入れるところが増えていると思う。これがなぜ大事かと言うと、医師からすれば正しい診断と正しい治療を行い患者の言うことを理解しcompassionやempathyを示していれば十分に思えそうなものだが、患者からすれば「あの先生は握手しなかった」「あの先生は名前を名乗らなかった」ということは些細なことではないからだ。
 だからBeth Israel Deaconess Medical Centerの精神科医にしてHarvardの助教授であるDr. Michael W. Kahnによれば、医学教育において接遇講習は必修化されるべきだという。人間性の涵養などといって難解な本を読ませるよりずっと簡単で、教えることができるし、効果も期待できる。形から入ることで内容もついてくるものだからだ。彼はそれを、CVラインの感染症予防に手袋着用や清潔野の確保といったチェックリストをつくるアプローチになぞらえている。
 それで彼は接遇六箇条を仮につくり、New England Journal of Medicineに紹介し(2008 358 1988)、のちにこれはNew York Timesにも紹介された。六箇条とは:

  1. 診察室に入る許可を求め、答えを待ってから入る
  2. 自己紹介する、その際IDバッジをみせる
  3. 握手する(必要なら手袋をする)
  4. 座る、必要なら笑顔を見せる
  5. 患者ケアチームにおける自分の役割を簡単に説明する
  6. 病院にいることについてどう感じているかを尋ね、反応を聴く
医師からしたら「この程度のこと」かもしれないが、あなどってはならない。これで患者満足度があがるのである。人として、healerとしての土台だろう。これが必修化されて「この程度のことだが残念ながら意外とやられていないこと」が「やって当然のこと」になれば、不要な医師・患者関係の摩擦が減るだろう。

11/19/2014

The Kalamazoo Consensus Statement

 Michigan州Kalamazoo。Kalamazooといえばジャズ・ビッグバンドの名指揮者にしてトロンボニストであるGlenn Millerの名曲"I've got a gal in Kalamazoo"を思い出す人も多いだろう。しかしこの本の第6章を締めくくるのはそれではない。1999年5月、ここに医学教育やプロフェッショナリズムに関わる団体から代表者たちが集まって「よき医師・患者関係に必須の要素を目に見える形で提示しよう」と議論した結果についてだ。まあ当たり前のことが書いてあるといえばそうなんだが、可視化することに意味があると思う。

  1. 関係を築く:患者中心の、関係性中心の診療アプローチをしよう。患者の価値観は自分と違うかもしれないことを念頭に置こう。
  2. 話し合いを始める:患者が患者自身のことばでどんなことで困っているのかを伝えたいか聞こう。その際に患者とのつながりを持つよう努めよう。
  3. 情報を集める:オープンな質問、クローズドな質問をつかい、言語での表現、非言語での表現に注目して患者さんに起きていることの理解を明確にしよう。
  4. 患者の見方を理解する:患者がどんな信念をもっていて、どんな心配があって、何を得ようとしてあなたに会いに来たのかを聞くことで患者の背景を良く知ろう。
  5. 情報を共有する:医学用語を避け、患者の教育度に配慮して、患者があなたの言っていることを理解していることを確かめよう。一緒におさらいしてさらに質問が無いか聞こう。
  6. 同意に達する:このあとどうするのかについて患者と同意に達しよう。それを助けてくれるものがあれば活用しよう。
  7. その場を締める:最後に質問がないことを確かめよう。もう一度あなたの理解を患者さんとおさらいし、次にいつ会うかを話し合おう。

Practice Makes for Better Practice

 この節では①若い医師は「知らない」と言えることが何より大事、②超緊急、準緊急、非緊急のトリアージができるようになろう、③ロールモデルに付いて学ぼう、ということが書かれていた。そして③のなかでふたつのエピソードが紹介されていた。
 一つ目は、本の著者が付いた家庭医学の創成期に活躍したDr. J Roy Guytherで、彼が忙しい午後の外来ですでに時間がビハインドであるにもかかわらずある老年女性患者の多彩な主訴一つ一つに耳を傾け、最後医師がドアを出る直前に「あの、先生…」という"oh by the way" questionとか"hand on the door knob" concernとか言われる例のアレを受け、嫌な顔せずにその問題について話し合ったことだ。この光景を目の当たりにした著者はそれが頭に焼きついたという。
 いまでは多彩な主訴をもつ患者の外来診療では「そのなかで今日はどれを話し合いましょう?」と絞るskillが教えられるし、実際身体診察するヒマもない日本の外来では多彩な訴えにかまう余裕はないかもしれない(各専門科に振ってしまえばいいか、というのは悪い冗談だが)。まあ最近はアメリカでも一人当たりの外来診察に割り当てられる時間は減っているから、アメリカのほうがむしろ医業収入を出せずクビになるかも知れない。
 でも診療最後の「あの、先生…」という"oh by the way" questionとか"hand on the door knob" concernとか言われる患者の訴えを軽視したり見落としてはならないというのはよく知られた事実であり、それが診療のカギになることもあるし、患者満足度もあがる。
 二つ目は、やはり家庭医学の草分け的存在のDr. Edward Kowalewskiの例で、ある日の診察である患者が「自分はいま人を殺してきたところだ」と曝露した。そこで医師は机の裏についたボタンを押した。これが銀行なら、通報されて警備・警察がやってくるところだが、このボタンはなんと"do not disturb"を意味するボタンで、廊下側からはその部屋のランプが赤く点灯するようになっている。そこで彼は患者と90分あまり話した後、一緒に警察署に行って患者は自首した。
 現場がパニックになるところを、平静の心と誠実な心で患者に接することで収めるスキルと自信をこの先生は持っていたということだ。医者の仕事ではない?そうかもしれない。しかし患者は助けを求めて医師の元に来た。助けを求める者を癒す力、まさに医のアートをまざまざと見せ付けられた思いだ。

The Art of Presentation

 仰々しい題目だが読んでみると基本的なことが書いてあった。プレゼンの目的を知れ。プレゼンの対象を知れ。「主訴→HPI→既往歴…」の順を守り聞き漏らすな。主訴は患者の言葉で。HPIの冒頭は新聞の見出し(lead)のようにその一行でだいたいの背景や状況が分かるようにしろ(そうすれば聞き手がそのあと、それに合わせて有ること無いことに注目しながら聞けるので)。見出しで始めるのは、私も気に入っている。
 HPIは時系列に沿って、元気だったときから病院に来るまで漏れなく描写しろ。アレルギーは何をいつ摂って何が起こったのか書け、絶対に(これをおろそかにすると、いつか医原性の恐ろしいことが起こりうる)。身体診察は「容貌→バイタル→頭から足」の順を守れ。アセスメントではプロブレムリストを立てろ。分かる範囲で書け(診断が着いているなら診断名を、着いていないなら症候など臨床上の問題点を)。この本の著者はアセスメントをプロブレムリストと同一視してているようだが、私はここに臨床推論を含めるべきだと思う。
 プランには治療と診断(検査)計画のほか患者教育、フォローアップなども含めろ。医学生なら抽象的なプラン(抗生剤)でいいが医師になったら「何の薬をどのようにいつまで何を指標に続けて、以下の副作用に注意し出現時はこう対応する」等できるだけ具体的に書ける様になるのが望ましい。食事、運動、ストレス、検診計画までたてられたら理想的だ。S→O→A→Pの順を守れ。プレゼンのフィードバックしてくれたりカルテチェックをしてくれる先輩医師に感謝しろ(私もそう思う)。

11/13/2014

忘れられない一言 25(aka Paul Farmer)

 この本の第五章の最後を飾るPaul Farmerは余りにも有名だし、彼のことを書いた本は邦訳も出ている(国境を越えた医師―Mountains Beyond Mountains) から私が書くことはあまりないが、彼がしていることは世界の医療不均衡との戦いだ。医師というか、anthropologist(博愛主義者)だ。しかし私が学生時代に彼を知ったきっかけはこの引用句だったと思う。

  The only non-compliant people are physicians. If the patient doesn't get better, it's your own fault. Fix it.
 
 すごいことを言う人だな、と思った。それからこの言葉は私の脳に刷り込まれ、患者さんがよくならない時にすぐ患者さんのせいにする医師は無視して、まず「自分の診断、治療に間違いはないか?」と自問する癖がつくようになった。言うは易し行うは難しだが、正しい診断と正しい治療をすれば患者さんはよくなるはずで、それができるようにならなければならない。

 さて第五章まで読んで、ここからは第六章がSurvival Tips for the Young Physician、第七章がCivility、第八章がLessons learned from Private Practice、終章がThe Healerだ。第六章、第八章などは具体的なアドバイスがありそうで楽しみだ。第七章のcivilityも内容が気になるし、終章がどう締めくくるのかも興味深い。

Non-philosopher philosopher

 Edmund D. Pellegrinoは職業倫理と生命倫理の分野でアメリカを代表する学者だ。彼は患者-医師関係の重要性を認識することはバイタルサインを取ることと同じくらい重要だと私達に突きつける。そして患者-医師関係は患者の利益、患者への善を中心においた関係であり、それは築かれると共に時には守られなければならないと説く。たとえば彼はThe Commodification of Medical and Health Careという論文でPlatoを引用している;

 But tell me, your physician in the precise sense of whom you were just speaking, is he a moneymaker, an earner of fee or a healer of the sick?

 私達はこの問いについて考えなければならない。そして考えることは哲学の始まりだというSocratesの言葉をPlatoは引用している。だから私達はnon-philosopher philosopherなのだ。私達は無償で医療サービスを提供するほどナイーブではないけれど、医療は産業だと言い切ってはいけないような気持ちにもなる。しかし医療費は年々増加しているし、病院としては利益率をあげなければならない(いつだったか「休日の退院はベッドが空床になるのでその辺を良く考えるように」と言われて驚愕したことがある)。
 Pellegrino先生はまた、道徳についても説いておりそれが元になってAmerican Medical Associationが2001年にPrinciples of Medical Ethicsを採用することにもなった。Platoは徳の四要素にfortitude(逆境に負けない強さ)、temperance(節制)、justice(公正)、wisdom(智恵)を挙げているがPellegrino先生はこれにfidelity to trust(信頼がおけること)、compassion(共感)、integrity(それらを統合すること)、self-effacement(自分より他を優先すること、謙虚なこと)、そしてphronesis(アリストテレスの用語で洞察力のこと)を加えた。
 一日が終わったときに「ああ、今日も症例や手技に対してお仕事をしたな」と感じるか「ああ、今日も自分の経験と知識と能力を活かして病み苦しむ患者さんとその家族を癒したな(あるいは癒えるのを助けたな)」と感じるか。原点を考えさせられた。やはりこの本はよい(著者がPellegrino先生に会いに行ったら「この手の本は30年くらい出ていない、よくやれよ」と言われたそうだ)。つねに後者の道徳観を忘れていないか、戒めなければならない。

11/12/2014

研究と臨床と教育(aka Theodore E. Woodward)

 Theodore E. Woodwardは著者の大学(Maryland大学)にいた医師で、すぐれた研究者でチフスなどの感染症研究でノーベル賞にノミネートされ、すぐれた教育者で学生が選ぶ賞(Golden Apple Teaching Awardと呼ばれ、米国のどの医学部にもある)とfacultyが選ぶ賞を殿堂入りするほど受賞し、かつ情熱的な臨床医師でブリザードが吹いて多くの医師がこれなかった日も平然とやってきて(もう80歳になろうという頃で自分が直接患者を診る業務はなかったのに)「除雪車にヒッチハイクで乗せてもらったよ」と言うような人だったそうだ。
 こういう研究も臨床も教育も一流な人というのは、確かに存在する。私でいえばアイオワ時代の今は亡き恩師がそうだった。皆さんの周りにもいるだろう。どうしたらなれるのか?いまは細分化、分業化がすすみ教育は教育、臨床は臨床、研究は研究に分かれているからレーダーチャート(うちの院長が好む言葉だが)を傘のように広げるのは無理なのだろうか?米国のacademicianは、臨床何%、研究何%、教育何%と決めて仕事をするという。しかし1/3ずつやる人はまずいない。大学にいる医師はphysician scientistかclinician educatorかhospitalistだ。
 で、私はclinician educatorを目指してやってきた。そしてsemi-academicな環境(community teaching hospitalで、大学ではない。医局にも入っていない)にいる。いまはエネルギーを蓄える時期だからアクティブな活動はできないが、考える時間はもらえている。今まではbed-side teachingとprofessionalismとclinical reasoningとefficient workについて教えるのが好きだった(得意だったから)。これからはどうだろう。目標は何度変わってもいい。歩き続けることが重要で、そうすればいつかどこかにたどりつくだろう。

11/10/2014

忘れられない一言 24(aka Schweitzer)

 この本の第四章を締めくくる巨人はAlbert Schweitzerで、この人についてもまた多くがすでに語られているので私が書くことはあまりないが、やはり何といってもこの人はserve(またはservice)ということの重要性を教えてくれる。彼はこんなことを言っている。

 I do not know your destiny, but I do know one thing; the only ones among you who will be really happy are those who will have sought and found how to serve.

 You ask me to give you a motto. Here it is: service. Let this word accompany you as you seek your way and your duty in the world. May it be recalled to your minds if ever you are tempted to forget it or to set it aside. Never have this word on your lips, but keep it in your hearts And may it be confidant that will teach you not only to do good but to do it simply and humbly. It will not always be comfortable companion but it will always be a faithful one. And it will be able to lead you to happiness, no matter what the experience of your lives are.

 サービスという言葉は、「サービス残業」のようになんとなく不当に尽くす(使われる)イメージで捉えがちだが、彼はそれを徹底的に肯定的に捉え、結果アフリカのジャングルまで行って、みんなにもサービスを行えと言っている。一方で彼が30歳になるまでは自分のために時間を使う(30歳になったら人類に尽くす)と決めていたことも伏線に考慮しなければならないが。
 私は、サービスと言う言葉は相手に良いようにつかわれる(そういえばservantと言う言葉もある)のではなく自分から自分を使って自主的に相手に尽くすことを言うのだと思いたい。これを書いているのも、自分の英語力を使って、医学教育の曖昧な領域を補完する助けになればと思ってのことだ。彼が言うようにsimply、humblyに。

Imperturbability

 そうそう、Sir Oslerのところでimperturbabilityという語にであった。これは「動じないこと」で、有名なaequanimity(平静の心)が心の持ちようだとすれば、imperturbabilityはそれを持って行動することだ。Codeのとき、まず自分の脈をチェックしろなどと言われるが、経験と知識を深めて予想外の出来事にも動じない態度を身につけなければならない。

忘れられない一言 23(aka Peabody)

 Francis Weld Peabodyはハーバード大学の教授をしながら市中病院でmedical serviceにも当たった人だが、この医師がこの本で取り上げられているのは、20世紀に医学が患者を治すべき対象の機械のように扱いはじめたことに強い憂慮を覚えそれに対して警鐘を鳴らしたからだ。彼はJAMAにCare of the Patientという人間性を大事にすべきだという警句を連載し、それは後にDoctor and Patientという彼の著作集に含められることになった。例えば彼はこんなことを言っている;

 The good physician knows his patients through and through, and his knowledge is bought dearly. Time, sympathy, and understanding must be lavishly dispensed, but the reward to be found in that personal bond which forms the greatest satisfaction of the practice of medicine.

 これを読むと、私が初期研修をしていたときに教えに来た米国人医師の恩師を思い出す。最初に彼に会ったときにはその病歴・身体診察などの鋭い観察に基づく診断能力と膨大な知識に舌を巻いたが、米国で彼の診療を見たときには彼がまさにここに書かれたようにたくさんの時間とsympathyとunderstandingを使って患者さんのことを知り尽くしている、その凄さを尊敬した。患者さんはpatientsであるまえにpeopleであることを忘れてはならないと改めて思う。

忘れられない一言 22(aka Sir Osler)

 Sir William Oslerについては多くの人に語られているが、この本を読んで彼がTeacher and Studentという著作のなかで学ぶ者が修めるべき性質についてリストしているのを知った。一つ目は、”art of detachment”。すなわち遊びと学びのメリハリをつけること。二つ目は、”virtue of method”。これはシステマティックな学習を習慣化すること。三つ目は、”thoroughness”。無知も間違いも隠さず徹底して真理を学ぶこと。四つ目は、なぜかこの本に書いてない。邦訳された『平静の心‐オスラー博士講演集』に載っているかもしれないからあとでチェックしてみよう。
 ただこの本ではSir Oslerが類稀なる観察力で科学的に臨床医学、病理学を発展させたことや、学生を病棟に連れてきて教える方式を取り入れたといった良く知られた業績のほかに、彼が心身医学の父として知られていることが紹介されており興味深かった。心身症を認めようとしない患者や家族に彼はよくこんなたとえ話をしていたという。

 The body and mind are like husband and wife, when one doesn’t feel well, the other sympathizes.

11/05/2014

忘れられない一言 21(aka Maimonides)

 Moses Maimonides(Rabbi Moses ben Maimon、Rambam)はイスラム・ペルシャ文化全盛期を生きたユダヤ人で、ユダヤ教信徒にとっては医師よりむしろ聖職者として有名な人である。RhazeもAvicennaも情熱を持って敵味方・貧富に関係なく患者を癒したが、医のアートと医学教育を語る上で彼ほど献身的に患者や若い医師に尽くした人はいないそうで、Osler卿は彼の情熱と智恵に敬意を込めて彼を”Prince of Physicians”と呼んでいる。
 Maimonidesは「Maimonidesの誓い」と「Maimonidesの祈り」の二つでも知られている。これは実際には彼の言葉ではなくImmanuel Kantの弟子Markus Herzの言葉だとも言われているが、誓いのなかにこんな言葉があって私達の襟元を正してくれる。

 Today he can discover his errors of yesterday and tomorrow he can obtain a new light on what he thinks himself sure of today. Oh, God, Thou appointed me to watch over the life and death of Thy creatures; I am ready for my vocation and now I turn unto my calling.

 前半は「昨日より今日、今日より明日」と言っているわけだが、ともするとルチーンな「お仕事」になってしまう私達へのよい戒めだ。後半は、自分は神に神の創造物の生死をwatch overするよう選ばれたと言っている。このwatch overという言葉には、生死をどうこうするのは神で、自分はそれをアシストするという意味が込められているように思える。Maimonidesもまたヒポクラテスに始まりいままで紹介した医師達と同様に、生活習慣や食事を治療の根幹に置いていたが、それは現代にも通じる話だ。

忘れられない一言 20(aka Avicenna)

 Rhazeの次に紹介されているのが有名なAvicenna(Abu Ali Sinna、またはHakim Ibn Sinna)だ。この人はBook of Healingと、14冊からなり以後700年にわたり医学書の基礎として伝承されることになるCanon of Medicineという本を書いたペルシアの医師だ。あのOsler卿もこの本を”a medical bible for a longer time than any other work”と記している。
 彼もRhaze同様に観察を重視したがそれを広げ、実験したり治験したり感染症の概念を提唱して検疫をはじめたりした。またRhazeとちがい先人から学ぶ姿勢が旺盛で、ヒポクラテス、ガレン、アリストテレス、Rhaze、そしてインド医学の影響を受けた。心身のつながりについてもよく言及し、王子が恋人に振られたあとは彼女の名前や住所を聞いただけで不整脈がでたのに、よりを戻したらたちまち治ったエピソードを紹介しており笑える。Avicennaの節を著者はこう締めくくっている。

 He reminds us to look back to our ancestors and learn from them to create new knowledge in a scientific manner and to use the information gained to reach out and heal our current patients.

忘れられない一言 19(aka Rhaze)

 この本の第三章は中世の医師たちを紹介している。中世の医師といえばGalenを想像する人が多いだろうが、この本ではRhaze、Avicenna、Maimonidesの三人を紹介している。Rhaze(Abu Bakr Muhammad ibn- Zakariya Razi)はContinens Liber(The Large Comprehensive)という9冊からなる集大成を著したことで有名なペルシアの医師で、Galenの体液説を公的に否定した最初の人だ。本に書かれたことよりも、自分で観察し考察することを重視した彼は、こんなことを言っている;

 All that is written in books is worth much less than the experience of a wise doctor.

 科学技術が進んで知識が集積した現在を生きる私達は本を読んで医学を勉強する。それは本に書かれた内容がすでにwise doctor達のcollectiveな経験、またはevidenceに基づいたものだからだ。だから症例検討会などで経験豊かな先生が「(私の経験によれば)これはこうだ」などと言っても、心のどこかで「ああそうですか」と思うことがある。でもそれは、それでいい。というか、自分も自分なりの観察と経験で意見を持てばいい話だ。

10/31/2014

忘れられない一言 18

 「先生も見てみてください、これ」
 と若いスタッフの先生が手渡してくれたのは、私が休職する前に同じチームで働いていた研修医の病歴要約。なかなか読み応えがあったが、たとえばこんな感じだ。

 【現病歴】…本人いわく水分は摂取してた。

 いいんだよ、いいんだ。一回教えたくらいで出来るようになると思うなんて、教育者の思い上がりもはなはだしい。私が休職などせずにフォローしてあげればこんなことにはならなかったかもしれない、と申し訳なく思った。
 きっと殺人的に忙しい初期研修の合間に徹夜で書いたのだろう。私だってサマリーを整理して書けるようになるまでには時間を要した。研修はきつい。わからないこともできないことも沢山ある。でもいつかちゃんと出来るようになるから。がんばれ、全国の研修医!

忘れられない一言 17

 英語で医師を意味するdoctorの語源がdocere(教える)なことはよく知られているが、これは印欧語根dek-に由来し、同じ語根から生じたdiscereは「学ぶ」という意味だ。まあ、「教えることは学ぶこと」と言ってるだけだが。

 ちなみにフランス語で医師を意味するmedicin、スペイン語で医師を意味するmedicoの語源は印欧語根med-に由来する。この語根には「適切な処置をする」という意味があり、mediateみたいな感じだ。moderate、modestなども同じ語源だ。

 またこのmed-からラテン語のmederiがうまれ、これには「世話をする、癒す」という意味がある。そしてさらにそこからmedicineとremedyの二語がうまれた。と、言語学トリビアが終わったところでこの本の第二章も締めくくられつつあるが、そこでハッとする文章にであった。それは;

 It is not "the pill in the hand, but the hand behind the pill" that helps our patients feel better.



忘れられない一言 16(aka ヒポクラテスの誓い)

 ヒポクラテスの誓いは私が紹介するまでもないが、この本によればアメリカの医学部では卒業式でこれを宣誓すると書いてある。患者に善を施す(beneficence)ということは当時も今も変わらないが、中絶と安楽死については議論のあるところだろうから、宣誓をためらう人もいるのではないかと思ってしまうが。本当かな。
 誓いではそのあと患者と堕落した関係を持たないこと、守秘義務などが続く。守秘義務は米国ではHIPPA(Health Insurance Privacy and Portability Act)が1996年に制定され、日本でも個人情報保護法が2003年に成立したことはいうまでもない。それはいいとして、私が今回誓いを改めて読んで納得した部分はここだ;

 ... by precept, lecture, and every other mode of instruction, I will impart a knowledge of the Arts to my own sons ...

 アメリカの医学教育を語る上で教えることが当たり前に考えられているのは、国民性や文化の違いもあるだろうが、やはりヒポクラテスの誓いもその根底にあるのではないかと思った。私もアメリカの医学部には行っていないが医学教育は受けてきたのでこの誓いを受け継いだと信じているし、別にアメリカに行かなくてもこの誓いは当てはまるべきだと思う。

忘れられない一言 15(aka ヒポクラテスの警句集 2)

 それからこの警句集は観察の重要性を教えてくれる。200以上ある警句のほとんどは「尿の表面に泡が浮く人は腎臓の病気で慢性なことがおおい」とか「生まれつき太った人はスリムな人より早死しやすい」とか「肺炎が胸膜に達するとやばい」とか「宦官は痛風と禿げにならない」とか、観察によって得られた知識の集積だ。なかには「強いワインを飲むと空腹が治る」とか「月経を止めたければ胸に巨大なカップをつけろ」とか笑えるものもあるが。
 観察の重要性といえば、私が米国でインターンをしていたとき、いつもアテンディングが病室の入り口に張ってある"contact precaution"という札を見て「どうしてこの患者はcontact precautionなんだ?」と訊かれ答えられずドギマギしたのを思い出す。今は電子カルテにデカデカと"MRSA"とか"VRE"とか表示される時代になったからそんなことはないのだろうが。
 それにしても指導医の回診ではいつも、彼らの観察眼に驚嘆させられた。点滴のラベル、ライン、モニターを瞬時に見て取り「いつまで心電図モニター(あるいは膀胱カテーテル、Aライン、CVライン)が必要なの?」と訊いたり、机の本や所持品、簡単な問診から患者の社会文化経済的背景を診て取ったりしていた。私もそうなりたいと努力してきたつもりだが、まだまだだ。

忘れられない一言 14(aka ヒポクラテスの警句集 1)

 ヒポクラテスの書いたとされる著作は、彼の死後200年以上たってギリシア人がアレクサンドリア図書館を建てたときに当時の医学著作をCorpus Hippocraticumと総称したものだから、そのすべてが彼の書いたものではないと考えられている。
 まあこういうことは古い歴史ではよくあることだが、その著作の中に警句集(Aphorisms)というのがあって、200以上の警句が載っている。有名な"Life is short and the art is long"もその一つだが、これには続きがある;

 Life is short and the art is long, the occasion fleeting, experience fallacious, and judgement difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself but also to make the patient, the attendants, and externals cooperate.
 
 全体を読むと、この警句が言いたいことは「人生は短いんだから自分の技を急いで磨け」というのもさることながら、「自分ひとりで出来ることには限りがあるから患者、医療チームとよく協調し外的環境を利用して最善の判断を下せ」というふうに思える。

忘れられない一言 13(aka ハンムラビ法典)

 医学の祖といえばアポロ、アスクレピウス、ヒポクラテスあたりを思い浮かべる人が多いだろう。しかしこの本は最初に釈尊とハンムラビ王の言葉を載せている。釈尊は「病気のないことが第一の恵みである」と言ったそうだ。そしてハンムラビ法典にはこう書いてある;

 If a physician make a large incision with an operating knife and cure it, or if he opens a tumor (over the eye) with an operating knife, and saves the eye, he shall receive ten shekels in money. ... If a physician heals a broken bone or diseased soft part of a man, the patient shall pay the physician five shekels in money. ... If a physician makes a large incision with an operating knife, and kills him, or opens a tumor with an operating knife, and cuts out the eye, his hands shall be cut off...

 「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典だからこれくらい書いてあってもおかしくはない。しかしこのハンムラビの言葉も、要は"First Do No Harm"と言っているわけだ。患者に命を託される聖職者であり特権職である以上、腕を切られようが切られまいが知識と経験を磨かなければならない。

10/30/2014

忘れられない一言 12

 「先生、私の名前わかります?

 ふと視線を上げると(断っておくが、今日は寝ていない)、看護師さんが名札を手で隠して人懐こい視線で私を見下ろしている。

 もちろん知っている。

 「なになにさんでしょう?」

 でも少しあせった。というのもICUの看護師さん全員の名前を知っているわけではないからだ。名前を覚えることの重要性はいうまでもない。D・カーネギーの『人を動かす(原題:How to Win Friends and Influence People)』でも第2章の第4節で「名前を覚える」と触れられている。

 電子カルテになって医局で遠隔オーダーなどすれば、もはや誰がいつその指示を受けているかわかったものではない。やはり「なになにさん、これお願いします」と直接その人の名前を呼んで一緒に仕事をするやりがいを忘れたくない。

忘れられない一言 11

 New England Journal of Medicineが酸塩基平衡と電解質異常の特集を組んだ。レビューも詳細だし、ここに訳したいくらいだ。ケースは難解かつインタラクティブで結構なことだ。ケースをICUのローテーターと一緒に解いてもいいかもしれない。しかしケースはともかくレビューを訳すのは労力の割に合わないし、酸塩基平衡と電解質異常について自分なりに何かここに書こうかとも思ったが、すでに良書秀書が山積しているのでやる気がいまひとつ出ない。

 そんななか、医局の本棚を見やるとRichard Colgan先生が書いた"Advice to the Young Physician(on the Art of Medicine)"が目にとまった。医学教育においてアートの重要性が取り上げられて久しいが、やはりサイエンス先行(医学発展のためにそれが必須なのはもちろんだが)、あとはシミュレーションで、アートを主唱する人は少ない。さらに、アートが大事という人が言うこともやってることも今ひとつ腑に落ちない。それでこの本を買ったのだった。

 第一章では著者が自信の半生を振り返りこれから書く内容について述べているのだが、最後の段落、とくにそこでの引用句(下線部)が心に引っかかった。

 Let me close by repeating my initial reflection - I am not a complete physician. I continuously strive to be a better physician and a better healer by learning from my colleagues, as well as from my patients. I share with you what I believe to be compilations of some of the greatest medical teachers, those who I consider to have exceptional words of wisdom to pass along to all of us. I have much to learn. So do you. But that should not stop us. In the words of English poet and playwright Robert Browning (1812-1889), as he wrote of the poet and scholar Abraham ibn Esra (1092-1167) in the poem Rabbi Ben Ezra, I confess to you, "That which I have strived to be, and am not, comforts me."

 「自分がなろうと努力している、でもまだなっていないもの、それは私を落ち着かせる」とでも訳そうか。Comfortだから快適にする、でもいいだろう。自分も他人も完成品ではない。向上は生涯つづく努力なのだから、燃え尽きないように快適なゾーンでやることが大切だ。

 この本はこのあと、古今東西の名医・名教師を紹介してから、コミュニケーションなど実践的なアドバイスに及び、さらにはprivate practice時代に経験した智恵(医療訴訟の対応などもふくめ)を余すところなく教えて最後にhealerとは何かをつづり締めくくる。和訳されていなかったら、この本こそその価値があると思うが、まあそれはさておきまず自分で読んでみよう。


3/07/2014

一旦お休みする

 書きたいことはでてくる。こないだはCutaneous manifestations of ESRDという特集論文(CJASN 2014 9 201)を読んでフェロー用にスライドを作ったから、その内容をここに書こうと思った。あとDFPPのアルブミン置換は考えられているよりずっと危険かもしれないことを書こうと思った。低フィブリノーゲン血症もあるし、XIII因子の低下もある(Ther Apher Dial 2013 11 165)。それから、XIII因子なんてHSPに関係あることくらいしか知らなかったから、文献(Transfusion 2013 53 1120)を読んで勉強しなおし、ここにまとめようと思った。

 他にも、他にも、他にも。

 でも、一旦お休みすると決めた。もともと自分のためだけに書いたこのブログによって、私は大きく引き上げられた。それがいろんな方々の目に触れるようになって、有難くもあった。いままで読んでくださった方々には、厚く御礼申し上げる。どのようなカムバックを果たすかは、まだ分からない。でも、まず一旦お休みする。書かないことによって、より大きな、別のタイプの学びを得られるかもしれない。新しいアイデアがうまれるかもしれない。別な鉱脈を掘り当てるかもしれない。We'll see。

2/20/2014

10ヵ月後には

 こないだ、ERで気管内挿管した。私は米国でのトレーニングで気管内挿管を一切しなかった(挿管は当直の麻酔科医がした)。にもかかわらず(ER看護師さんの介助のおかげで)挿管できたのは嬉しかったし、それなりにアドレナリンもでた。しかしこの行為は安全だっただろうか?分からない。私がやるべきだっただろうか?すぐ横のブースでは初期研修医が風邪のwalk-in患者さん達を診ていた。ならば、私の役目はそういう一次救急を「さばいて」、初期研修医に気管内挿管の機会を提供することではなかっただろうか。
 そもそも、いくら日本の初期研修病院で研修を終えたからまがりなりにも出来るとはいえ、私はER診療をするために日本に帰ってきたのだろうか。救急部の人員が充実している病院など日本にほとんどなく、どこも内科医が当直でER診療に当たっているのは知っている。その回数も内容も今いるところは恵まれているとも認識している(欲を言えばwalk-in、救急車対応、病棟対応、新入院を別の医師が担当したらいいのにと思うが)。しかし、どうして私が?安全なのか?資源は有効活用できているのか?という思いは残る。こないだの気管内挿管のあとで「私はいったい何をしているのだろう」という虚しさを覚えたのには、そういう背景があるのだろう。
 「米国でも日本でも働ける医師になること」とは「米国で学んだことを放っておいて日本でやり直す」ことなのか、「米国で学んだことしか使わないで済む環境を日本で探す」ことなのか。いまその間で正直疲れている。「米国にいる間やってこなかったが日本では必要なこと」を今からするのがしんどい。その逆に、日本にいない間に米国で必要なことを学ぶトレーニングは、この五年間めちゃくちゃ一生懸命やってきたのに。でも、いまはそれ(米国時代からのアカデミックな活動)もいまひとつ力が入らない。
 米国でレジデンシーをした一年目も結構大変だった。10ヶ月くらいして、やっと地に足が着いた。もっと言えば、日本で初期研修をした一年目はもっと大変だった。しかしあれも10ヶ月くらいして何とか働けるようになった。もう若くないし、院内政治とか大人の事情もあるけれど、まだ帰国して働きはじめて6ヶ月目だ。仲間も少しずつだが増えてきた。他院から「私と一緒に学びたい」と来てくれたGodsend(神様が遣わした助け)の先生もいる。1-3月は初期研修医教育を充実させて、4-6月は後期研修医教育を充実させるというおおまかな計画もこれらの仲間のおかげで進みつつある。だから、いまは大変でもきっとこれから事態がよくなることだろう。

1/27/2014

Medical literacy (aka Google Scholar)

 『おいしい論文のおいしい探しかた』というレクチャをした。これはいわゆる「手弁当レクチャ」なので、私が誰にやれといわれたわけでなし、聴く側にも何の強制力もない。それでも当日はたくさんの先生方が来てくれて嬉しかった。きっとタイトルが魅力的だったのだろう、こんな話は誰もしないだろうから。しかし医師として患者さんによい医療を提供するためには何といっても知識が必要で、だからこそどんな病院にも大なり小なり図書館があり、どんな医局にも医学雑誌が置いてあるわけ。だからmedical literatureの海を渡る力、すなわちmedical literacyは、個人的には医師をやっていくうえで「中心静脈ラインの取り方」とおなじかそれ以上に大事だと思う。

 というわけで、レクチャでは論文を探すもっとも簡単な方法と、その次に簡単な方法を紹介した。最初のもっとも簡単な方法とは、ひとに聞くことだ。研修医なら研修医どうしで聞いてもいいし(これは私が初期研修したところではSHAREの精神と呼ばれている)、指導医に聴いてもいい(こないだ指導医講習会では「研修医の相談は指導医の勲章」という言葉を聴いた)。指導医は全国・世界に広いネットワークを持っているから、たとえ自分が知らなくてもお友達に聞ける。学会などもそのためにあり、腎臓内科で言えばCJASNやAJKDには教育的な記事が多くて助かっている。

 とまあ、「論文を探すいちばん簡単な方法はひとに聞くこと」なんて一休さんみたいなことを言って、実際自分で調べるときはどうするの?それが次に簡単な方法だ。自分で論文を探すリソースはたくさんあるが、私が最もよく使う(そしてもっと知られていいと思う)のはGoogle Scholarだ。私の印象ではGoogle Scholarで検索すると、Pubmedよりも「おいしい(relevantな)」論文を先に返してくれる。「何年以降の論文」という条件をいれるのも簡便だし、「その論文を引用している論文」に飛ぶのもたやすい。そこからPumbedサイトを介して雑誌サイトに飛んで、(もしあなたの病院が購読していれば)PDFをゲットすればよい。

 そのあといろいろ質問がもらえてこちらもやり甲斐があった。なかでも「どんなふうに検索キーワードを選べばいいの?」という質問と「たまっていく論文(PDF、紙)をどうやって管理すればいいの?」という質問がきて嬉しかった。最初の質問だが、検索ワードの選び方には実は英語力が求められると思う。しかし何かアドバイスせねばと思い「論文のタイトルになりそうなのを入れてみたら」と回答した。二つ目の質問だが、わたしは管理しきれないのでもはや論文は引用できるよう「雑誌、年、巻、ページ」だけ書き留めて、必要なときふたたびダウンロードするようにしていると答えた。できるひとはDropbox®とか大容量ディスクとかスキャナとか色々試したらいいだろう。

1/15/2014

忘れられない一言 10

 医師の言葉が患者さんに与える影響は、米国よりも日本のほうが大きいような気がする。たとえば入院治療計画書の入院見込み期間など、医師としてはあくまでも目安としてかなりアバウトに書いているのに、患者さんが「ここ(計画書)に何日間と書いてあるからいついつまで入院なのでしょう?」とおっしゃることは良くある。ならば、医師の患者さんを勇気づけたり希望を与える言葉も大きな影響をもつということだろうか?
 そう考えていた頃に出会ったのが、患者さんからの「患者が言いたいことを医者が言ったら患者は何も言えない」という言葉だ。長く入院してもなかなか良くならない患者さんが苛立っておられるようだったので、長い闘病生活にも関わらずなかなか良くならずお辛いのではないですか、という意味のことを聴いてこの言葉をいただいた。患者さんは諦めずに弱音を吐きたくても我慢していたのに、回復という希望を奪われたように感じてしまったわけだ。
 辛い人に「辛いのですね」と聴くなんて、ちょっとアホみたいだろうか?私はこれが「気持ちを受け止めていますよ」というための最も直接的な方法だと思う。気持ちのそういう部分に触れるので、その結果患者さんが泣いても怒っても全部受け止める覚悟は必要だが。とくに入院が長くなった場合(や予後が良くない場合)、患者さんの気持ち的な部分を避けて病気だけ診ることは、私にはできない。
 だから私は、いままで辛くても我慢していたことを知らせてくれて嬉しかったと伝え、私が希望を引き続き持っていることを訴え、辛い気持ちも含めて一緒にやっていきましょうと話を締めくくった。しかしいま思うと、長い入院治療でたしかに私は根を上げそうになっていたのかもしれない。だからそれをびしっと指摘してくださった患者さんにはいくら感謝しても足りない。患者さんの言葉もまた、医師に影響を与えるということか。幸い患者さんはそのあと快方に向かい退院された。

1/13/2014

忘れられない一言 9

 以前、米国内科学会誌の(なかで私が唯一読む)On Being A Doctorで、「きっと眠れるようになるから」と主治医が言ってくれたから不眠を克服できたという、ドイツの先生が書いた話を紹介した。そのあと、自分にも「先生が『二ヵ月後に会うときには禁煙できているといいですね』と言ってくれたから禁煙できた」という患者さんが現れた。

 こちらこそ、患者さんが「先生が『二ヵ月後に会うときには禁煙できているといいですね』と言ってくれたから禁煙できた」と言ってくれたから忙しい診療における医師としての自分の役割を再認識することができた。それは、希望を与えることなんだと。このprofessionを選んで身に着けていくのは、希望を与える力であり、未来を信じる力。

1/09/2014

切手とおりがみ

 いまいる病院の売店に、切手が売っている。ということは、患者さんが誰かに闘病生活について書き送るということだろうか。患者さんの家族や友人がお見舞いに来たときに患者さん宛てに送るなら、切手は付けないはずだ(そういえば日本の売店には、米国に売っていたGet Well、Sympahyなどの様々なグリーティングカードは置いてない)。
 もし入院したら、誰に手紙を書こう。遠くにいる家族や友人だろうか。どんなことを書くのだろう。お見舞いなら「元気になってね」だが、本人が書くとなると「元気になるからね」だろうか。親しい相手なら「しんどい」「会いたい」だろうか。あるいは同じ病気の人たちで励ましあったりもするだろうか。奥が深い、日本の入院生活。
 それから、売店にはおりがみが売っている。それも、千羽鶴を折るための小さいやつが!私の理解では千羽鶴というのは、お見舞いの友人が何人かで折り集め、入院中の患者さんに持っていくものだ。だとしたら病院の売店で買うことはないだろう。じゃあ患者さんが折っているのか?それも疲れるし、いくら日本の病院は入院期間が長いとはいえ千羽もつくれないだろう。
 だから、この折り紙を誰がなんのために買っていくのか興味深い。もし本当に患者さんが入院中に気を紛らわせるために売っているなら驚きだ。そのうち編み物だのルービックキューブだの数独だのも売られるようになるかもしれない。あるいは、入院中に希望を得られるような他の何か(本とか)。

1/06/2014

忘れられない一言 8

 いま私は、研修医の先生方が患者さんのプロブレムを挙げ、それぞれについて「原因はなに」「どんな治療をしている」「治療に反応しているか」「このあとどうするか(予防もふくめて)」を自分なりに考えられることを目標に指導している。漏れなく診療し全面的に前進させなければ、患者さんはよくならないしよい医療もできないと考えるからだ。

 そして、私の考えるプロブレムには「肺炎」「腎炎」などの病名だけでなく「痛み」「痒み」など症状も入るし、「筋力」「食欲」など機能も入るし、「独居」「大酒家」など社会背景も含まれる。病気だけ治しても、歩けなければ退院できない。そのために看護師さん、薬剤師さん、リハ療法士さん、栄養士さんがおり、相談員さん、ケアマネージャさんがいる。

 そこへきて、よい医療というのはそれだけですか?プロブレムを効率的に解決するだけでいいんですか?という論文(Ann Int Med 2013 159 492)に出会った。論文はいう、Johns Hopkins Hospitalの片隅にはJesusの像、MGHの奥にはエジプトの書記ミイラがあって、近代化する前の病院には人間的な温かみや癒しがあったことを思い出させてくれると。「しかし」と論文は以下のように続く。

[T]he overwhelming experience within the physical structures of technologically advanced hospitals is of power, vastness, and industrial efficiency. They project a technical excellence that seems inconsistent with healing the whole human. They have lost their prior specificity; they are no longer a place where patients can imagine themselves as human beings instead of collections of medical problems waiting to be solved.

 「もはや病院は患者さんが人間としてではなく解決されるべき医学的な問題点の集合としてしか自分自身を想像できない場所になってしまった」という最後にハッとした。病院でもっとも大事なのは患者さんの問題を治すこと。しかし、患者さんが病気をどう受け止めているか、治っていく過程にどのようなことを感じているか、病院で過ごす時間や医療者との触れ合いをどのように意味づけているか、なども無視したくない。

 私とてそれを無視してきた積りはなくて、以前ここでも問題提起して、思いを書き続けている。しかしこの論文を読んで、教育にもっと「全人的医療」の側面を強調しなければと改めて思った。まあ日本の入院期間は長いし、医療者にも優しくて思いやりがある方が多いから、「はい次」みたいな忙しさや非人間性はないが。それから、日本の病院でも出来るいろいろな提案も思いついた。

 たとえば、入院が長い人のところへ行って気遣うボランティアさん、勇気を出させたり癒しを提供する音楽を奏でる音楽療法士さん(米国での経験はここに書いた)、精神的な支えになるチャプレンさんなどがいたらもっと入院生活が意義深くなるかもしれない。祈りの場所があったら助けになるかもしれない。患者さんが闘病メッセージを書けるように紙とペンを置いてあげたらカタルシスになるかもしれないし、それらを文集にして病棟のロビーに置けば、読む人が力をもらえるかもしれない。