12/18/2007

新地平

 日記にせよ、カルテにせよ、ものを書くのは考えをまとめるよい機会である。カルテなど特に、限られた時間内で得た情報を記載し、考えたことと実際に行った内容、そしてその結果を記載するので、アウトプットのよい訓練ともいえる。私はカルテ記載の簡潔さと十分さについて常に意識してきたので、それが後輩の先生達にもよい影響を与えているようだ。
 最近は、患者さんの心情や受け止め方について記載したり、家族への説明の様子などを記載するのが好きだ。さらに、より一般化して、病気を得ることによる患者や家族の心理変化や、医療ができることとできないこと、などについて考察してwordにまとめたりしている。いままで患者さんの病態や身体面に一辺倒であったのが、シフトしつつある感じである。
 看護師とも、患者がどう感じているか、どのような看護がのぞまれるかなどについて話し合ったりした。いままでの自分にはなかったことだ。後輩の先生方が優秀で仕事の多くをしてくれるからできることでもある。医師の役割について考えることができたという意味でも、腎臓内科ローテーションは意義があった。

12/16/2007

教え

 研修医時代に教わったことは、ある意味「作法」であり「教え」である。それがどういう理由であるか、本当にそうなのか、などについては、ときに批判的考察をしたにせよ、面と向かってつっかかったりはしなかった。
 診察のときにまず眼を触るやつがあるか、触られて負担に感じない手などから診察しなさい(脈をとるなど)、というのは作法である。病状を説明するときに「~がね、~だからね」と語尾に「ね」をつけるのは止めなさい、「まず○○について説明します、そして◇◇について説明します」というように順序だてて話しなさい、というのもマナーである。
 心がけなども学ぶ。知識と技術を得るのがもちろん本分である、しかしその先に必要なのは勇気であると習った。健康を喪失した患者が弱い立場にあることを知り、病院を離れれば患者ごとにちがう社会背景・生活があることを知って接するようにと習った。
 メスの持ち方などと同じようなものかもしれない。いまの病院で思うのだが、ここの先生方は基本的に「教え」「作法」を学ぶという姿勢が希薄である。自ら学び、考えることが異様に重視されているので、批判的考察を表出せずにわかりました、とは絶対に言わない。「ふーん」という感じである。
 こう書いてみると、いまの病院のほうが先輩後輩なく意見をたたかわせる「よい」環境にみえる。まえの環境は、わるく言えば軍隊的、体育会系なところともいえる。私は、そういうものは本来好きではないのだが・・。
 学年にほとんど差がない人を「教える」場合、与えられるのは一日の長で得た、確立していない経験に過ぎない。それでも、生き抜くのには役に立つはずと思って共有しているのである。得られるものはとりあえずもらって、あとから取捨選択してもらうのが効率的と思うのだが。

12/11/2007

学習された無力さ

 うつ病は、きわめてありふれた病気であり社会に与える影響も大きい。今週の医学雑誌が最新の基礎研究の結果を紹介していた。いままでうつ病はセロトニン、ノルエピネフリンという二つの神経伝達物質で説明することが多かった。セロトニンは、おもにムードにかかわり、ノルエピネフリンは意欲や情動にかかわるという。それで、これらが枯渇しないようにする薬がうつ病治療の基本になっている。
 しかしこの薬は一定の効果があるものの限界があるようだ。別のメカニズムもはたらいている可能性がある。雑誌にのっていたのは、ネズミをつかったlearned helplessness(学習された無力さ)についての実験。避けられないストレス下におかれると、ネズミはそこから逃れたり克服したりすることをくりかえした末にあきらめじっとしてしまう。
 この状況をもたらす脳内の仕組みが解明されつつあるという。ventrolateral aqueductal grayという場所でsubstance Pがつくられ、それがnucleus accumbenceという場所で神経細胞のneurokinin1受容体に結合するとGABAという物質が放出され、あきらめムードが形成されるという。まだまだ臨床応用には遠いが、これにかかわる薬ができれば、うつ病をあらたな機序でなおせるかもしれない。

11/26/2007

減速要素

 カルテでリハビリの記録を読んでいて「減速要素」という語を見つけた。減速要素がないので危なっかしいという。たとえばベッドから車椅子に移るときに、腰をじょじょに落として車椅子に座るのには減速要素が関与している。それがないと、ストンと車椅子に尻餅をついてしまう。
 最初この語をみて不思議に思ったが、調べるとスキーなどでも用いられる用語だった。減速要素を少なくすると早く滑れる。まったくなければ、重力にしたがって落下していることになる。おもしろいので比喩的にも用いてみようと思う。「君には減速要素がない」とか。

診断力

 入院患者さんの診断がさっぱり分からない、といっていたら、後輩の1年目の先生が(おそらく正しい)診断を思いついた。なんでも、最初から気づいていたのだが言い出せなかったという。それも、8月頃、別の科でみた患者さんに似ていたという。
 その患者さんのことは、私も知っていたが、結びつけては考えられなかった。臨床は、やっぱり経験が重要と痛感した。そして経験値は経験年数に応じてつくものでもなく、どれだけ一人一人の患者さんから学ぶかが重要と思った。ふらふら診ているだけでは身につかない。

11/16/2007

綱渡り

 人脈というのは成功のために欠かせない。しかし、その人との関係がうまく行かなくなったらその後の進路がうまくいかないと思うと綱渡りのようだ。時候の挨拶、サンクスレター、相手を大事に思っていることを知らせる、自分が優れていることをアピールする、などが欠かせない。
 相手にとって、自分が青田買いする価値のある人間とも思えないのに、善意なのか篤志なのかよくしてくれる、私を推薦するよう申し出てくれるときなど、ほんとうに恐縮である。自分の本性や真価が判ったときにこれらがなくなると思うと不安である。
 でもやっぱり綱渡りではダメだろう。おべっかを使っても仕方ない。自分で考えたユニークな意見、夢、使命を持つことだ。あらゆる成功哲学書が、結局この点を強調している。夢を信じる力が強力なGPSとなって、何度でもルート再検索して目的地へたどり着けるだろう。

11/15/2007

安全確保

 透析のあいだ血液の一部が常に体外に出されている(1分間に150-200ml抜いて、そして戻している)ので気分が悪かったり寒かったりするが、慣れた患者さんはじっとしてテレビを観ている。それが、4時間くらいかかる。慣れない人は大変である。誤って血液を抜いてくる管をはずそうものなら血まみれの事故になる。だから、管を触ろうとする不穏な人には、寝てもらうこともある。
 事故があってはならない。透析室では何人もの人たちがベッドに横になって透析を受ける。中央のタンクで浄水から透析液がつくられ、各患者さんに供給されている。一人だけにかかりきりになるわけにも行かない(心筋梗塞後など、きわめて不安定な人は別)。事故などあれば本人のみならず、他の患者さんを極めて不安にさせてしまう。
 とはいえ昼間から鎮静剤を使って夜に眠れないのもつらいので、時間があれば付き添って鎮静剤を切ってあげることにしている。それに、患者さんが透析に慣れてくれば、薬もいらなくなるだろう。

どうなることやら

 22のプログラムに応募して、結局は縁のある2病院から面接に呼んで貰った。ありがたいことだ。返事待ちのところも多いが、メールで「せっかく行くのでもしよければ呼んでもらえないか」と打診するのは、応募者にとって常識らしい。渡米は1月上旬になる可能性が高いが、交渉しており希望どおり行くかはわからない。
 面接の準備をする必要がある。よく準備しておけば、如才なく応答することができるだろう。「なぜあなたを雇わなければならないのか?」「いままで経験した面白い症例について話せ」「なぜ米国に来たいのですか」「米国にずっと居るつもりですか、日本に帰る積りですか」など。答えがないものもあるが、ないなりにも納得いく返答をしなければならない。

11/12/2007

これがあれで

 機内で落語をよく聴く。楽しいし、時間をつぶすのに最適だ。一度は末廣亭に行ってみたい。こないだも、小噺を聴いていた。医者にかかって高血圧を指摘される場面があり、「いまの血圧はこれくらいで、これがあれぐらいになると良くないから、それぐらいになるようにしましょう」と説明をうけた、というくだりがあって面白かった。実際にもおこることである。専門外のことについては、誰もがそんなもんである。

不全感

 動脈硬化を元に戻すことはきわめて難しい。よくはできないこと、いままでの生活習慣の積み重ねであること、悪化すれば血管が詰まる・破れるなどの合併症が起こること、これらは直視したくない事実だ。そして、いままでの生活を是正し、薬をのみ、採血され(針を刺され)、うまくいかないと落ち込む、がんばっても、治せるわけではない。「しんどい」ことと思う。
 患者はそれだけのことを、何のためにするのか。医師はそれだけのことを、何のためにさせるのだろう。患者がハッピーになるためのはず。患者は、病院に通うために生きているのではない。ハッピーに生きる(のを助ける)ために病院に通っているはずである。協力してうまくやる、不全感を克服することが大事と思う。

11/09/2007

血管の病気

 腎臓内科で勉強している。腎臓が勝手に脹れて故障する病気もあるが、大抵は高血圧、糖尿病などで動脈硬化が進んでなった病気をみている。というのも、腎臓は血液をろ過する工場で、細い血管のかたまりだからだ。1分間に1Lもの血液(心臓から出た血液の1/5)が腎臓を巡る。
 動脈硬化が進めば、心臓の血管も狭くなり、脳に行く血管も狭くなる。心筋梗塞、脳梗塞を起こした患者さんも多い。腎臓が悪い人は、そうでない人に較べ圧倒的に病気になりやすく、重症化しやすく、何かにつけ病院に来て、多くの場合入院することになる。
 腎臓内科医は本来は透析をまわさずに済むよう努力するのが仕事である。しかし、透析という国営医療(月60万円かかっても自己負担は1万円以下)が充実した日本では、建前ではなんとか悪化を食い止めよう、といいつつ、本音は、悪くなっても透析がある、と思い勝ちらしい。

11/03/2007

検査前確率

 胸をぶつけたあと、徐々にそこが痛いという患者さん。診察室で椅子に座っていても、痛みはほとんどないようだ。打撲だろうか。診察すると、肋骨や胸骨に痛みはない。しかし、みぞおちを押した途端に豹変。息ができないと訴え、腹筋を緊張させきつそうな表情を浮かべる。結局、脾臓を損傷していた。
 本物(の臓器損傷や骨折)かどうか、検査する前に判断する能力が必要だ。本物っぽくない患者さんに念のため検査してしまうことも多い。それはそれで大事なこと。しかし、明らかに痛がっている、お腹がかたい(腹膜炎の症状)ときに限って、意外と検査するか迷っていたりする。経験が必要だ。

10/30/2007

陣頭指揮

 救急外来は、混んでくると「野戦病院」の様相を呈する。野戦病院であれば、つぎつぎに負傷、疾病をもつ兵士が運び込まれ、応急処置を受けた後に戦線に復帰するか、それが不可能な状態が安定しだい後送される。適切かつ迅速にトリアージ(重症度と大まかな方針の決定)をおこなう、また苦しみを取り除くことが求められる。
 しかし、あまりに混んでくると、医療スタッフや設備のキャパシティーを越えてしまう。超重症な患者さんがおれば、その人にかかりきりになることもある。多発外傷などは、その良い例だ。人手を取られた状態でも、臨機応変にスタッフを配置して指揮しなければならない。
 究極的には、全員生き延びさえすればいいのかもしれないが、あなたは軽症ですから待ってください、といって重傷なこともあるし、痛くてたまらない人や吐きつづけて苦しい人が何時間も放置されるのはよくない。家族や本人が対応に不満をもち激怒したり、他の病院に行くといいだすこともある。
 看護師が事前に患者さんを診察してくれるのだが、当院のERはトリアージ専属の看護師がいない。すでに患者さんが一杯でその対応に追われている場合、新しく来た患者さんをみにいけない。さらに、せっかく早めに診察して点滴や内服、検査を計画しても、点滴をする人が多かったりその他のことで忙しければ、そこから1時間待ちになることもある。
 こういう時、さっとできることは看護師に代わり自分でする必要がある。また、注射も点滴も血液検査もそれなりに時間と人を使う医療行為なので、本当に必要かをよく考えねばならない。患者の求めに応じて、というのはいただけない。
 Aさんの診察をして、Bさんに吸入をさせて、Cさんの採血をしたところで、さっき血液検査をした結果がでたDさんに説明をしてCTに連れて行き、帰ってきたらEさんに飲ませた痛み止めが効いたかを確認しに行く、そしてFさんを診察する。
 うまくいけば、これをしながら、Gさん、Hさんを診ている研修医の先生、Iさんを診ている研修医の先生に指示をだして、なんとか多くの患者さんを診療することができる。うまくいかないと、看護師ともめたり、患者ともめたりして、結果診療が停滞して悪循環になる。もめると、正直ちょっと、疲れる。
 でも翌日が完全OFFだと、まだ頑張れる。それが救急のよいところ。
 

解法と解答

 外来をしていると、今まで経験したことのない症状や訴えをどんどん経験する。そこで考えるのが非常によいトレーニングになる。
 考えて分からないことは、相談したり、検査を追加して補うしかないが、幸い当院にはよい指導医とよい設備があるので、それで正しい診断にいたることで、自らにフィードバックして考えと答えを一致させることができる。
 タクシー運転手と胸痛・・・タクシー運転手といえば長時間同じ姿勢で座っている仕事。大抵は喫煙者で、血栓をつくる危険は高い。肺塞栓症(肺に血液を送る重要な血管がつまる)を想起すべきであった。造影CTで、肺血管の先っぽのほうに血栓像を疑う所見があった。
 心房細動のある人の嘔吐と腹痛・・・ただのイレウスではないかもしれない。心臓に血栓ができて全身に飛ぶ危険がある人であり、急性上腸管膜動脈閉塞症(小腸に血液を送る重要な血管がつまる)を想起すべきであった。造影CTで上腸間膜動脈が詰まっているのがわかり、緊急手術となった。小腸の大部分が壊死していた。
 この方は認知症がつよく、症状がはっきりしなかった。高齢者、精神疾患、意識障害のある患者さんで、患者さんの訴えを鵜呑みにしてはいけないというのは鉄則である。

10/27/2007

引継ぎ

 確かに引継ぎは大事だ。しかし、救急外来は「どさくさ」であり病歴も入院医ほど完璧にはとれないし、検査も限られている。大きく方針のかわる、重要な疾患を見逃した(あるいは念頭におかなかった)となればfeedbackを受け改善すべきだが、細かな病歴を取っていないなどと責められても困る。
 それは、入院を受ける「病棟主治医」の仕事である。米国では入院を受け持つ場合に問診と診察に1時間かけるという。入院医は、患者のデータベースをつくらなければならない、知らないことがあってはならない。それも、救急医の得た情報を鵜呑みにせず、オリジナルに聴取するのが筋である。
 引継ぎは、大まかに患者さんのことを知らせるためにするのであり、それがカルテだけで十分なら、相対してしなくてもいい。決して、後医が前医を侮辱するためにするのではない。なんといっても「後医は名医」なのである。

言いがかり

 うすぐもりで初雪の気配もありつつも、陽射しを感じてまだ暖かい朝。夜間帯に受診し入院となった患者のうち、総合内科に入院した方について、寝ぼけまなこで総合内科の担当チームに引き継いだ。引き継ぐ患者さんは、私が直接診ていない方(昨晩22時までの人から引き継いだ)。引き継ぐ相手は、以前から馬の合わない同学年の先生。正直気が重い。直接診ていないので、カルテを見ながら引き継ぐ。
 「この方は、○○で、今朝から・・・」
 「今朝ですか?昨日ではないのですか?」
 日付をまたいで勤務しているので間違えた。今朝からって、こうして話しているいまが今朝だから、そんなわけないと思うのだが。
 「ご家族によれば・・・」
 「ご家族って誰ですか?」
 「・・・」
 「ご家族は今日は来るんですか?」
 カルテに書いていない以上わからない、しかしそれがそんなに重要なことだろうか。誰が家族の代表かなど、基本的な情報は看護師が入院時にデータベースとして取っているから参照すればいい。必要ならその人に電話すればアポイントを取れる。まだ誰になるかも分からない主治医の都合もわからずに「何時に来てください」と前もって確約することもできない。
 だんだん、言いがかりに思えてきた。要するに、直接診ていない人から引継ぎされても意味がない、直接診た先生から引継ぎを受けたい、という怒りを私にぶつけているようだった。救急部と総合内科の取り決めで、総合内科医が夜中も入院を受けるのは大変だからと救急部が朝まで肩代わりしているのである。私に言われてもどうしようもない。
 22時までの勤務の人に翌朝来させることもできないので朝まで勤務の者が引き継ぐことにしているが、これは今に始まったことではない。こうして言いがかりをつける先生も、救急部で働いていた時には同じことをしていたのだが。どうも、理解に苦しむ。
 その先生はこの病院の生え抜き研修医であり、私は新参者であるから下手に悪く言うのも却って周りの不興を買うと思い今までの不愉快な件については黙っていた。しかし今回の件は引継ぎというシステムについての話で、個人間のレベルを超えるので、救急部の先生に相談した。上記の認識で一致したので、少し溜飲が下がった。

10/25/2007

ドクターストップ

 医学的な判断を下すのは、勇気のいることである。医学的な事情を、その他の社会的な事情より優先するとき、とくに勇気がいる。風邪のお母さんと子供の運動会の応援、などがその例だ。怪我と世界選手権出場、胃腸障害と国会審議参加、過労と強制労働(あるいは兵役)などもあるかもしれない。
 風邪と臨床研修、というのもある。研修医のころ、全身倦怠感がひどくて休んだことは2回あった。いずれも、フウフウ言いながら業務をして、こっそり体温を計ると37℃ちょっとでガッカリして、でも仕事にならないので結局代わってもらった。よほどでないと、受診じたいはしなかった。
 いまは、逆の立場になった。立て続けに6回吐いても「すっきりしたので働けます」という研修医を受診させ、診察して帰す。きつさのため仕事にならない、と不安を訴える研修医がいれば、受診できることを伝え、診察した上でその科の上司に相談して早退させる。
 その判断がつくひとが、医者である。医師doctorという語は、docere(指示する)という言葉から来ているというが、それには知識と経験がいる。自分の見立てを信じる勇気がいる。それで、早退が必要です、というときに勇気を感じる。
 このとき、いいなーオレも休みたいなー、などと言ってはいけない。しわ寄せがきたキツさを紛らわすために言うのだろうが、本人は周りに迷惑がかかることをじゅうぶん申し訳なく思っているのであり、むしろ代わりがちゃんといるような仕組みが必要であろう。

早く帰ること

 調べものをしていたら帰りが遅くなった。外はまだ耐えられる寒さだが、今後夜道が凍りついたり、銀世界だったり、吹雪で5m先すら見えなかったりするのかと思うと気が引きしまる。早く帰るか、さもなければ帰れないか、である。凛とした空にオリオン座が輝いていた。帰れば彼女が焼き菓子をつくったのが置いてあった。朝ご飯に食べよう。

10/18/2007

スーパーバイザー

 いまの立場では、後輩の先生達を監督することが求められる。つまり、自分で直接患者さんを診るのではなく、後輩の先生達が聞いた話や診察した結果をもとに、方針をきめたり指示したりする。最初は、自分で診なくていいから楽チンだと思ったが、ぜんぜんそんなことはない。
 患者さんの問題が単純で後輩の先生の診立てでよいときは、「うん、いいんじゃないか」といって居ればよい。でも、実は患者さんの問題が重大であるにもかかわらず、そうでなく聞こえてしまったときに「うん、いいんじゃないか」では済まされない。つねに落としがあると思っていなければならない。最初は、ほぼ全例患者さんを結局一緒に診察するくらいがちょうど良いのであろう。
 救急外来でスムーズに診察するにはtime managementが要求される。具体的には、この患者さんにはこの検査をして、この科の先生に相談して、この注射をして、入院・帰宅する、というコースを想定しつつ、それを把握するために重要な情報を、初療の病歴や診察から得ていくということである。そして、カルテをさっさと書くということである。
 自分は前の病院で先輩方に教わったので、なんとしても後輩に伝えなければならない。まあそんな自分こそ、なんとなくそれがわかるのに丸2年かかった気がするし、いまの後輩の先生のほうがきっと覚えは早いのだろう。

入院拒否

 入院すべき人が入院を拒否することがある。喘息発作で来院し、酸素を吸わなければならない状態の人が、仕事にいくと言い出す。心臓発作で来院し、いまにも心臓の血管がつまりそうな人が、家をちらかしたままで出て来たからいますぐ入院は無理、3日後なら大丈夫、と言い出す。

 緊急入院させるのは、いったん家に帰って入院の準備をすることすら危険な状態だからである。心電図や酸素飽和度をモニターするのは、いつ急に心臓や呼吸の状態が悪くなるかも知れないからである。そうでなければ、いったん帰って翌朝来てもらうことも理論上は可能である。ただ、入院して治療を早く始めるに越したことはない、とか、いったん帰るのも手間だ、などの理由で即日入院になることも多い。

 緊急入院は、患者さんにとって青天の霹靂である場合が多い。だから、「急変して命を落とすことも十分ありえます」とか、「仕事なら雇い主に事情を説明します」とか、「家のことは他の人に任せることができます」と提案しても、たいてい押し問答になる。まずは、「急に言われてびっくりするのもわかります」とか、「いろいろと事情がおありなんですね」と相手の大変な気持ちを受け止めることが重要なようだ。

 医者は強制できない。精神疾患で自傷他害のおそれがあると精神科医が認定した場合など、特殊な条件下では本人の同意なしに入院させることも可能だが、これはもう大変な修羅場になる。そんなわけで、理を説き情にうったえ、家族などにも事情を話す。そのうえで、入院してくれる人もいるし、やっぱり帰る人もいる。帰る場合も、じゃあ勝手にしろ、などと言ってはいけない。

 We are here to help.(いつでも来てください)

 ということである。私達はここで助けるため待っていますと。24時間、365日。

10/15/2007

コード

 米国医学雑誌で反響を呼んでいる"code"という記事がある。コードとは、こういうときにはこう行動する、という約束事であり、武士道なども一種のcode(規範)であるが、ここでは患者さんが入院中に心肺停止状態になったときはどうするか、ということである。心肺蘇生法を行うのか、行わないのか。重症患者さんや、末期患者さんではcode statusが重要であり、本人の意思と家族の意思を前もって確認しておかなければならない。
 とにかく何でもやってください、というのがfull codeである。多くの病院では、発見者が全館放送をかける。何をしていても、医師は走って駆けつけなければならない。集まった人から、リーダーを決めて、組織的に蘇生が始まる。止まった心臓を強心剤で動かそうとし、外から胸壁を押して代わりに動かし、心電図モニターをつけて不整脈波形がみられれば電気ショックをかける。呼吸が止まっているので、口から気管に管を通して酸素を送り込む。流れていない血管に点滴ルートをとり、心臓マッサージにあわせて触れる脈を頼りに針を刺し採血する。
 こうやって蘇生できることがあるのだから、すばらしいことだ。先月に担当した患者さんも、病院で運ばれた直後と、入院病棟にあがった直後に2回も心臓が止まったのに、蘇生し、さらに最高なことに、脳機能が保たれた。そのうち家に帰るだろう。そのほかのケースでは、心臓だけ動いて植物状態になるか、心臓が少し動いても数時間から数日で亡くなる。そして、おおくの、ほとんどのケースでは、心拍は戻らない。
 前置きが長くなったが、この記事を書いた先生が言うのは、うまく行かなかった場合に、多くの医師が、「蘇生がうまく行かなかった」と受けとめるばかりで、「患者さんが亡くなった」という重要な場面であることから目をそむけているのではないか、ということである。彼女の研修医時代の経験では、リーダーが
 "Code is called."
 (蘇生を中止する)
 と言ったとたん、医師たちが何事もなかったかのように立ち去り、振り返ると患者さんがまるで打ち捨てられたかのように横たわっていたという。みんな何も感じていないわけではないだろうが、もっとこういった場面に感じることや、かけるべき言葉などについてオープンに話し合うべきではないか、と彼女はいう。
 家族には事前に説明をしてあることもあるし、到着してから改めて死亡確認をする。そのときには患者さんはきれいにされている。でも、蘇生を中止したときにも、なにか患者さんに敬意を示す儀式があってもいいと思った。法律上、医師が死亡確認した時間が死亡時刻になるので、家族に「○時○分、ご臨終です」と言った時間を死亡時刻にすることが多い。かえって、蘇生を中止したときにそこにいるみんなの前で「○時○分、ご臨終です」とやって黙祷したほうがいい気もする。

priceless

 救急外来は、とくに夜間外来は、日中と比べて診療報酬が高く設定されている。準夜(夕方から夜まで)と深夜(夜から朝まで)でも違うが、深夜など診察を受けただけで2000円払わなければならない。CT検査は、造影剤だけで3000円かかる。どれも、自己負担額である。私が重篤な疾患を見逃してはならない、という一心で追加していた検査であるが、それらをすることで患者さんはだいたい1万円-2万円支払って帰る。
 命はpricelessで、実際に「まさか」と思うような病気が検査でわかることがある。見逃していれば翌朝を待たずに心肺停止状態で救急車で運ばれてきていたであろうこともたくさんある。ただし、医療費を自覚して診療できない医師は、現実感覚に乏しいと言われて仕方ない。社会が期待しているのは、話と診察、それに印象で検査を最小限にできる、十分な経験と知識をもった医師だろうか。あるいは、誰でもどこでも安価にだいたいどんな検査でも受けられる「安心」医療体制だろうか。

10/14/2007

ほうほう

 ほうほう、というのが私の口癖らしい。要は相槌なのだが、自分の価値観を挟まずに発言を受けとめるのに使う。「そうですか」でも「そうだったんですね」でも「なるほど」でも良いのだが、相手の会話を止めないように挿入するには、ほうほう、が一番よい印象である。言われたほうがどう思っているのかも気になるので、今度聞いてみようと思う。主に仕事でつかっているはずだったが、日常的にも頻用しているらしく、私生活では他の言葉も使いたい。

プランAとプランB

 渡米のプロセスが、間に合わない可能性がでてきた。どうなることか。水面下に、うまく行かなかった時のプランBを用意しなければならない。どんどん冷える気候、初雪も間近の憂鬱なこのときに、struggleしながらERのハードスケジュールで働いている。決まっていない状態は、ストレスなものである。仕方ない、やれるとこまでやろう。

10/11/2007

風呂あがり

 夜勤続きの毎日。朝、仕事が終わってまず風呂に入ると、疲れがとれる。汚れ(ウイルスなど)も落ちていると思う。労働の後の風呂は、気持ちがいい。炭鉱で働いていた坑夫・婦たちもヤマから上がると風呂に入ったという。以前いった炭坑記念館に、坑婦たちが半裸で湯に入り身体を流している大きな壁画が飾られていた。
 それにしても、毎日たくさんの患者さんを診ている。ERに一晩で100人来たとする。患者さんたちの住所で多い、近隣地域の総人口は、おそらく数十万人であるから、数千人に一人が毎日なにかの病気になり病院を訪れている計算。実際には、もっと多くの人が病院に行くまででもない状態の病気になっているのだろう。
 そんなことを考えながら、風呂あがりに眠気がきて、昼過ぎまで寝るのである。

10/02/2007

咳の季節

 咳の患者さんがたくさん来た。咳は本人にとっても苦しいし、周りにいる人にも苦しいので何とかしてあげたい。だが、肺炎などでなければ、病気の原因を治すことが難しいので、原因をいろいろ調べても結局治療は変わらないこともある。
 あまりにひどい咳であれば、百日咳に大人になって罹っている場合もあるので検査を提出することもあるが、後から判っても治療によって咳の期間を短くすることはできない。
 急性期の風邪・上気道炎の時期を過ぎたと思われるのに、いつまでも咳が続くときには、咳が主症状になるタイプの喘息や、鼻みずがノドに流れ込んでいることや、胃液ののどへの逆流などを疑うが、これも問診で判別するのはなかなか難しい。結局、一つずつ治療していって効果を見る場合が多い。
 ずっと患者さんを診られればよいが、現在のシフトでは、日中の内科外来の日と、救急外来で救急車の患者さんを見ている日の両方があり、なかなか再来の日程を組めないこともある。

9/29/2007

振り返り

 今週で、いまのチームも解散である。新しいチームに、いまいる患者さんの病状を引き継がなければならない。通例、同じ学年どうしで引き継ぐので、私のcounterpartとなる人に引き継ごうと、いまの患者さん全員分の引継ぎ資料を作った。ところが、その人は来週は休暇でいなかった。なので引継ぎは、なし。数時間費やした多くの短編達も、まあ、意味ない。
 しかし、いままで担当してきた患者さんの病歴やカルテを見直したり、問題点を再び抽出してそれぞれどこまで介入したかなどを見直すのは、よい振り返りである。また、ぱっと書ける人は、よく考え把握していた人で、書くのに時間かかる人は、把握が十分でなかった人かもしれない。
 つねに、患者さんの病歴・問題点・どこまで進んでいるかなどを言える必要がある。米国の臨床研修が優れていることのひとつは、そのトレーニングを受けられることだと思う。米国人の先生と話していると、それを痛感する。実際、プレゼン、プレゼン、プレゼンである。

引き出し

 米国医師国家試験の勉強で得た知識は、そのあと引き出されずに忘れられたかと思ったら、役立った。抗生剤を変えてからどうにも調子が悪く、むかむかするという男性。薬の影響かとは思ったが、まず肝臓の障害をうたがい診察。肝臓を肋骨の上からたたくと痛がる。もともと大酒家で、肝疾患も他に有していることから、薬剤性肝障害が起こりやすいのかな、と考えた。血液検査や肝臓のエコー検査をオーダーして、カルテを書いていら…。
 出されていたのはメトロニダゾールという抗生剤、そして、大酒家であるという事実。メトロニダゾールは、断酒剤の作用が知られている薬である。これが、米国医師国家試験の対策でよくでてくる知識。断酒剤とは、断酒したい人が、絶対に飲まない、という強い決意と見込みがある場合に、自らの意思で内服するもので、これを飲んだが最後、少しでも酒を口にすればひどい悪酔症状がおこる。
 そんな作用の薬を、大酒家に何の注意も換気せずに飲ませたら…。患者さんは、気持ち悪さをしのぐため酒を飲んで寝るしかない、と思ってがんばって飲んだそうだ。おそらく、もっと知識がフル回転で検索できる人なら、話を聞いた時点で「ははあ、これは」と当てていただろう。ワンテンポ遅れて、カルテを書いているときに気づく。頭を整理しながら、考えながら診察するのは、まだまだ課題である。

9/23/2007

成長せねば

 夜中の対応、いつでも迷う。患者さんの元々の状況がわからないので、といったら言い訳だ。翌朝まで患者さんがもつことが最低条件なので、それをクリアしたなら一応は許される。下手な治療をして副作用がでたら大変だ。しかし、なにもしないわけにもいかない。大げさに対応しすぎるのも、翌朝の笑いの種だ。でも、迷ったら安全なほうを。翌朝、審判をうけて勉強する。それしかない。

9/22/2007

諦観

 人は病気によって死ぬのではない、という言葉を聴いた。はじめは、意味がわからなかった。そのあとで、人は寿命によって死ぬのだ、と続いた。病気になるのも、その治療がうまくいくのも、うまくいかないのも、すべて込みで寿命と受け入れなければ、という意味であった。確かにそう考えなければ、やりきれないところもある。

9/19/2007

生活態度

 怨憎会苦が四苦八苦の1つに数えられているのは興味深い。社会生活をしていればそういう対象がでてくるのは避けられない。少し調べると、この苦は、おどろくべきことに煩悩や執着する自分の心から生まれるという。これを集諦という。苦しみの根源はとくに三毒といわれ、それぞれ貪・瞋・痴という。なかでも瞋は、自分に背くことがあれば必ず怒るような心を言い、痴とは、真理に対する無知をいう。はっとした。いまの自分は、物の道理を知らず、気に入らないことにふくれっ面しているだけじゃないかと。小さい、小さい。しかし、それを受け入れるのは厳しい。これらの煩悩を断ちきる(滅諦)ために、正しい生活態度ですごさねば(八正道、道諦)。

夜中の電話

 ここ数日は夜遅くまで忙しかった。病院に泊まったりもした。11時過ぎに患者さんに処置をすることもあった。そんな時、家族に電話すると、家族を非常に心配させてしまう。電話をにぎりしめ緊迫した面持ちの家族を想像する。こちらは、落ち着いて話をするのだけれど、おそらく動揺してほとんど頭に入らなかったのだろう。電話したあと数分して、病棟に電話があり、もう一度説明した。
 しかし、いくら動揺させても、処置の結果次第で急変することもありえるのだから、早めに伝えるのがよい。あとから、聞いていないといわれるのは、もっと大変なことだ。幸い処置はうまくいったので、それを伝えるため12時くらいにもう一度電話した。前の電話で、「万一の際にはまた電話します」と言ったのでびっくりさせてしまったが、夜中じゅう心配して過ごさせるよりはましとおもって掛けた。

9/11/2007

知識集約型の社交

 最近、職場で慣用句や四字熟語を多用している。いや、最近でもないのかもしれない。自分でも驚くほど多用している気がする。事典などを最近読んでいるわけでもないが、自然に出てくるのはなぜだろう。小さいころに漫画の慣用句事典などもふくめ、たくさん読んだのだろうか。物によっては、学校でこの授業で得た知識だ、とはっきり思い出せるものもある。
 慣用句を多用することで、不思議と周りにウケる。「おもしろいですね」とか「すごいですね」とか言われる。あるいは、患者さんへの説明などでは、きちんとした日本語に聞こえているかもしれない(そういうフィードバックを受けたことはないが)。慣用句を潤滑油にしたコミュニケーション様式で、自分は周りの人とうまくやっている気がする。アメリカに行ってもそれを続けたいので、慣用句の日米辞書のようなものがあれば一冊買って暇なときにめくって読みたい。豊かなvocabularyを。

自分を信じる

 今日は、方針を誤ってしまい残念だった。患者さんを診る前から、この検査(A)をしよう、と決めてかかりすぎた。実際の診察では、その検査で疑う疾患(X)とは別の疾患(Y)のほうがより当てはまる印象を持ったが、そのままその検査をやってしまった。残念ながらAに伴う合併症を起こし、Aはできなかった。あとから、Yに対する検査(B)を行う。BのほうがAよりずっと非侵襲的である。結果、Yであることがわかり、治療して患者さんの病状は改善した。
 今日は、先輩がおらず、自分と後輩たちで診療した。Aという検査は、事前に上司から話に聞いており、「まあとにかく今日はAをするのだな」と鵜呑みにしていた。自分の頭で考えて、自分のみた所見を信じないと、うまくいかない。まず最初にすべきことは、最も患者さんの病気として考えられるものについての検査や治療である。検査は、もっとも身体に負担が少なく、かつ役に立つものを選ぶべきである。それが、よい診療である。
 Sutton's lawである。もっとも考えられる診断を確かめる検査を最初にしなさい、という教えである。Sutton Willieという銀行強盗が、なぜ銀行強盗をするかと問われたときに "Because that's where the money is." と答えたとされている(後日彼は発言を否定しているが)故事による。同じような意味で、"When you hear hoofbeats in Texas, think horses, not zebras." というのがある。肝に銘じねば。

ONとOFF

 母校に、大学時代の成績証明書や、学部長からの紹介文を送ってもらうよう請求した。推薦状も集まりつつある。そんなわけで、あとはプログラム選びをしなければ。アメリカといっても広い。相当広い。東北部のほうがIMG(international medical graduate)をよく受け入れるという。他は、あまり判らない。全米に申し込みまくり、interviewに呼んでくれたら旅行するのも悪くないが。まあ落ち着いて考えよう。
 最近、仕事が終わって家で過ごすとき思う。こういう時間にしたいことが、本当にしたいことなんじゃなかろうか、と。それは、なんだろう。勉強が好きな人は、家で勉強するだろう。仕事が好きな人は、仕事のことを家でもするかもしれない。
 いまは、どちらかというと生活的なことを愉しんでいる。仕事も、夜になってくると、終わるものなら早く終わらせたい。休日も、何か予定をたてたい。講演会やワークショップに積極的に参加する、などはしていない。ONとOFFをはっきりさせる意味では、よいのだろうけど。
 アメリカの病院での研修医生活は、もっとON・OFFがはっきりしている。朝は早いが、とにかく効率よく仕事をして、15時くらいには終わる。終わらなければ、無能な人間とみなされ、あまり続けば上から「ついていけない人」と心配されかねない。では、終わった後なにをしているのか。遊んでいても、いいものか。

9/06/2007

経験と知恵

 学年が上がるごと、直接診ずに方針を立てるようになる。知恵で補わなければ、到底できない仕事だ。夜間に電話を受ける当直がある。主に1年目の先生から、病棟から呼ばれた用件と、彼・彼女が問診や診察をして得られたこと、それについて考えたことを聞いて方針を立てる。とりあえず、電話口で得られるのはそれだけだ。話の内容がどれぐらい信用に足るかも込みで考えなければならない。かといって全例自分が行って聞くわけにも行かない。カルテを見直すこともできない。1つの方針を決めるにも二の足を踏んで、結局電話がだらだらしてしまう。1件に20分以上かかる。後輩にしても、さっさと指示をくれればよいのに、と思っているかもしれない。
 クロスカバーなので、相手チームの患者さんについても、担当者から病状について申し送りを受ける。しかし、それで起こりうる急変すべてを予知することはできないし、患者さんの背景なども把握しきるのは難しい。一つの対策は、日常から相手チームの患者にまで目を行き届かせておくこと。あるいは、コールがあるたび病院に出かけていって、1年目の先生と一緒に診察すること。重症そう・不安があるときには、そのほうが安全であろう。

9/05/2007

注意深い観察

 足の付け根を痛がっている患者さんが来た。骨折を疑ったがレントゲンでは骨折の所見はないとのことだった。足を動かす診察をとても痛がる。結局、骨の詳しい検査をしたら、足の骨(大腿骨)の付け根に異常がみつかり、まず骨折であろうとのことで手術になった。疑ってかかることが重要である。
 肝酵素が上昇しているという患者さんが来た。診察したら、目(白目のところ)が黄色い気がした。黄疸の徴候と思っていたら、血液検査の結果では黄疸のもとであるビリルビンの血清濃度はまったく正常であった。確かに、お年寄りなどでは白目が黄染していることもある。お恥ずかしい。疑ってかかるのも大事だが‥。

9/03/2007

double effect

Thomas Aquinasの著作、"Summa Theologicae"という著作に書かれたdouble effectという概念は、医療倫理学に応用されている。ある行為が、よい効果ばかりでなく、悪い効果ももたらす場合がある。その行為が擁護されるのは次のような時であるという。
1)行為そのものはよいものであるとき
2)行為の意図はあくまでもよいことをするためであり、悪いことをするためではないとき
3)悪い効果がでるリスクを考えても、よい効果のメリットのほうが上回るとき
 どういうことか。末期状態、危篤状態の時に、患者さんの苦しみを取るために高容量の麻薬を用いる場合。呼吸抑制などにより死期が早まることが予想されるときに、これを積極的安楽死と呼ぶか。現在は、これは積極的安楽死ではないと考えられている、ただし、その意図があくまでも善行(苦痛を取るなど)である場合。
 ただし、同じようなことは、戦争において敵国の中心部を爆撃することは、戦争を早期に終わらせるためにやったのであって、市民を殺すためではないという風に正当化されうる。
 しかし、モルヒネが必ずしも量を使っても呼吸停止を起こさないことも知られてきており、そのようなこともあり自殺を禁じるRoman Catholicの指導者達もモルヒネの末期状態での使用に対しては肯定的であるという。

8/31/2007

困ったちゃん

 一期一会という。自分がきつい時、苦しい時、くさっている時でも、接した後輩にとっては先輩であり、先輩にとっては後輩である。自分を育ててくれた先輩も、きっとつらい時などもあったのであろうが、それを垣間見たことはなかったように思う。
 なので、後輩に心配させたり、先輩に心配させたりしてはいかん。自分らしさを出すことは、何より大事である。passive aggressiveなやつほど、嫌なやつはいない。

8/28/2007

サポート

 上司が私の尻たたきをしないと本当に私が渡米の機会を逃すのではないかと心配してくれていた。情けないが、事実だったかもしれない。正直言って、情報が少ないし放っておけば何年でも先送りになりうる。とにかく尻に火がついた。
 また、私がくさくさしているので、彼女がそんなら今が正念場だから仕事場に来たら?と薦めてくれ、23時にそそくさと職場に戻った。自分の頭の中からアイデアを引き出す質問集などもしてくれ、俎板に載った鯛ではないが腹を決めて質問に答えてみた。それも参考にしつつ、24時ころからもくもく作業したら、わりとカタカタと止まらずに書いていくことができた。

亀の歩み

 personal statementがようやく日本語でなんとか形になり、それをもとに英語をなんとかつくった。米国人の先生に送り、添削してもらうようお願いした。非常にbehindであるが、少しずつでも進めるしかない。このあと、学校の成績を取り寄せる、推薦状をさらに何通かもらう・書く、受けたいプログラムを探す(誰もが100個くらいは申し込む!)などをしなければならない。先が見えないのはストレスだが、いまは進むしかない。あきらめたらそこで試合終了である。
 昨晩に同じ希望をもつ友人と電話で話し、書類など当然揃えており、プログラムも目星をつけており、そのほかにもできることはだいたい済ませて、それでも不安がっていた。100%確実な道はないので、と言っていた。資格を揃えても手続きが進まないというのは、本当に行きたいのかと勘ぐられても仕方ない。実際、マッチングには早いもの勝ちな面がある。応募日に一斉に書類選考が行われ、数日のうちに面接に呼ばれる人が決まるという。

8/23/2007

ありがたい

 剖検をお願いすることがある。どうしても診断がつかずに、治療にかかわらず患者さんが亡くなった場合。非常に無念であり、亡くなった直後に説明するのが心苦しい時もあるが、他におなじような症状でやってきた患者さんを治療する助けになりうることや、ご家族に影響が及ぶ病気である可能性があれば、それを知る手がかりになりうることを説明する。同意をいただけるかは、ご本人・ご家族の信条や医療者側との関係などによるが、同意いただけたときには、本当にありがたく思う。

8/19/2007

明らかなものはない?

言い合いになることがある。相談を受けたとき、相談をするとき、どちらも相手の反応や考え方が自分と違うときには、電話を切ってから周りに「あんな考えは有り得ない、どうかしている」などと話してしまう。おそらく、電話の向こう側でも、同じことが起こっている。
 相手に自分の考えを押し付けず、感情的にならず、かつ相手の言いなりにもならないのは、非常に難しい。交渉術といえる。たとえば、お腹が痛いと言って外科外来に来た患者さんが、胃腸炎の診断で帰り、翌日になって熱がひどく状態が悪くなって救急車で帰ってきたとしよう。内科も外科も呼ばれる。外科の先生はお腹をさわって「これはおなかじゃない」とバッサリ。
 診察すると、たしかに「いかにもおなか」かといわれると、そうでない気もする。「明らかな○○はない」という言葉は医療で多用されるが、明らかなものくらい、専門家でなくてもわかる。問題は明らかではないけれどそうかもしれない場合についてである。患者さんは、元々の病気のため症状をうまくいえない人である(痛い、痛くないとしゃべることはできるけれど)。
 とにかく、お腹じゃない病気であってはいけないので、他の病気の検査をしたがいずれも引っかからない。そこで、「原因不明だが入院」になりそうだったところに、先輩のDrが来て、お腹に再び注目した。結局、エコーで虫垂が腫れており、手術になった。虫垂は壊死していた。
 自分の考えを持って治療することが、まず、とても重要である。そして、それをどう表現してチーム医療を正しい方向に導くかが、さらに重要である。実力が必要だ。

迷ったら

 今日は動き回って、あっというまに時間が過ぎた。でも、充実はしていた。後手後手に回ると、いいことがない。とくに状態が悪化しつつある患者さんに対しては、えいやっと検査や治療を進めなければならないときがある。この判断は、難しいが、「迷ったら安全なほうを」と唱えることが有効である。
 このまま休めればよいのだが、当直なので、病棟で変化があれば呼ばれる。明日の朝は発表があるので、準備をしたいがどうなることやら。でも、ひまうつになるよりは良かろう。

8/17/2007

ひさしぶりの電話

 前の病院で働いていた先生が他の病院に移ることになった。今日はお世話になったみんなで送別会をしたそうで、お世話になったうちの一人である私に電話がかかってきた。その先生とは合わない面も多々あった。仕事がつまらないと思うこともあった。今思えば、自分のやる気のなさをそのせいにしていたとも思う。ともかくお世話になった。久々に先生の変わらぬ声を聞けてよかった。
 一度気まずくなった関係を戻すのは難しい。そういう人達との関わりをできるだけ避けてしまう。許すことも、許してもらうことも、大変な労力がいる。あの時は・・と言えたらいいのにと思うこともある。でもそれだけで話は終わらない。でも、必要なら話し合いを続けなければならない。これからアメリカに行きたいなら、もっともっと、衝突と交渉を避けて通れない。

速報

 6月に受けた米国医師国家試験の実技(clinical skills)のほうに受かった。これで、米国で研修医になる資格がそろった。あとは、面接や書類がきなどさえして、相手方の病院がいいと言ってくれれば、働くことができる。
 一緒にシカゴの予備校で対策授業を受け、毎晩滞在先のホテルなどで練習しあった友人たちも、受かっていた。これからのプロセスについても、おなじように進められればと思う。相談できる相手がいることは重要だ。ただし、会って話せないのが痛いけれど。
 今日は上司にも相談し、じつはマッチングの準備が切羽詰って、尻に火がついていることを打ち明け、かつ具体的なアドバイスをもらった。本腰を入れて調べ始めた。今週末にある程度、固めなければならない。同志にもすがりながら、やっていくしかない。

8/12/2007

人生の愉しみ

 高齢の患者さんがやってきて、人生に愉しみがないと言ってきたら、うつ・甲状腺機能低下症などの疾患をまず考えるのだろう。そういったこともなく、ただ愉しみがないと嘆く場合も、あるだろう。
 悲観しているというよりも笑いながら、愉しみがないと言ってる場合もある。こんなときには、聴いてみればそれなりに楽しいことはあって、生活はなんとかできているのだが、これでいいのかなあ、という思いから言っているようだ。
 日々の暮らしは、冒険にあふれたものではなくなっているであろう。また、趣味や勉学に励むとしても、今更の感をいだくかもしれない。そもそも、いまの自分には、高齢の方がどんな愉しみをもって生きているのか、想像できない。下手にアドバイスなど、できるはずもない。

プロセス

 ERASのプロセスを進めなければならない。アメリカといっても、場所を選ばなければおそらく通るはずである。研修はよいけれど田舎にある病院でも、べつにかまわない。いままでもそうであったように。しかし、それはさておき、まずプロセスを進めなければ、まったく動かない。このまま資格だけそろって指をくわえて機会を逃したら、眼も当てられない。

8/10/2007

血糖

 随時血糖というのは、食事を抜かない時に採血した血糖。空腹時血糖は、たいていは、朝食を食べずに来て採血したときの血糖。食事の影響で血糖はあがるので、随時血糖のほうが空腹時血糖より高くなる。健康診断などでは、通例、食事を抜いて採血していると思っていたが、そうでもない。どちらかによって、値の評価が変わるので、健診の結果を持って病院を訪れた人には、これを尋ねることが大切だ。

8/06/2007

てんやわんや

 英国から留学生が来ている。さらに、米国から先生が二人来ている。今日から新しい診療チームになる。患者さんの状態は、落ち着いている。今週は、バタバタすることになる。今週から来たアメリカの先生は、私が大学時代にお世話になった先生で、とても久しぶりだ。偶然の再会で、先生が覚えてくれていてうれしかった。

8/05/2007

医者

 知識と技術を持つから、医者である。発疹をみて「皮膚の何かでしょう」というだけでは医者ではない。いくつかの病気を知っていて、蕁麻疹っぽいです、とか、接触性皮膚炎を疑うような病歴はありません、とか言えて、やっと医者のはしくれである。さらに、どんな診断か迷うような症例まで詳しい検査や豊富な経験をもとに診療できるのが、専門医である。
 救急外来では、ありとあらゆる症例がやってくる。重症度もさまざま。重症なリスクがどれくらいあるか(理論的には、翌朝まで大丈夫そうか)を算定すること、患者さんの症状を取り除く努力をすることが重要だが、それとはべつに、患者さんの問題が何かを探る努力が必要になる。除外していく診療から、診断をつけにいく診療へ。
 救急外来では、専門医に責任を分配することが多い。判断がつきにくいときや、あるいは判断した責任を分配するために専門医に相談する。時間も限られており、調べものをする時間はまずない状況では、持ち合わせた知識を越えることは、聴くしかない。しかし、丸投げしてばかりでも成長しない。あとから、勉強することが重要だと思う。

8/03/2007

おどろきの画像

 50歳女性が腹痛、発熱、膣からの出血のため来院した。診察すると、お腹にできものを触れる。膣壁の前側は壊死していた。CTをとると、腹部になにやら腫瘤がある。抗生剤で症状は改善したが、腫瘤について調べるため開腹手術になった。すると・・・
 80gのコカインが詰まったビニール袋が!あとで患者に問うと、3ヶ月前に膣に挿入していたという。一時的な税関逃れのためにしたのだろうが、なんと膣を越えてお腹の中にはいってしまい、そこで腸をつつむ膜にくるまれていたようだ。しかし、ビニール袋が破れていたら、大量のコカインが身体に吸収され、おそらく死亡していただろう。
 毎号、(医学的というか、単に興味を引く)記事があるものだ。

こぼれ話

 抄読会で発表する論文を読んでいた。一瞬脈が飛ぶという不整脈について調べていた(それ自体を薬で抑える必要はないとされているが、時と場合によるので調べていた)ところ、review articleの最初のところに「古代中国の医師がすでに記載している」と書いてあった。検索すると、扁鵲(へんじゃく)のことらしい。針灸の始祖とも言われその道では有名な人なようだ。
 いくつもの逸話が残っている。高桑君という神医から医術を授かり、人の気・脈の流れが透視できるようになったという。邯鄲にいって、そこで人々が婦人を貴ぶと知ると婦人科医になった。周にいって、人々が老人を大切にすると知ると老人科医になった。咸陽にいって、人々が子供を愛護すると知ると小児科医になったという。地域のニーズに合わせてなんでも診られる医師ということで、家庭医のコラムなどで引き合いに出されそうである。
 また、六不治といって、「こういう状態の人は、病気になりやすく、また治りにくい」という概念を提唱した。

驕恣で、物事の道理に従わない状態
財ばかりきにして身を軽んじる状態
衣食住を適切にしない状態
陰陽が五臓にとどこおり、気が安定しない状態
身体が衰弱しきって、薬を服用できない状態
巫を信じて医を信じない状態

チーム交代

いまのチームは、後輩の先生が外科系であったせいか、サバサバしていて楽しかった。全員男性であったこともあるかもしれない。後輩にレクチャしたり、後輩のカルテを添削したりの仕事を、次回以降にもっとやってみたい。前の病院では、入院が入るとまず1年目の先生が診察して、それをチームにプレゼンして、そのあと全員で話を聞いて、そして治療方針を決める。その日のうちに、1年目の先生が入院時のまとめをつくって、それを3年目が直していた。

気管切開

 意識のない患者さんがいる。自分で呼吸することはできるが、舌根が落ち込んでのどをふさいでしまうので、ほうっておくと呼吸したくても空気の通り道、気道が確保できない。唾液を飲めなくなり、それがのどにたまってごろごろ音を立てる。ほうっておくと、これものどをふさぐし、気管に流れ込む(誤嚥)かもしれない。
 救命で最も大事なことにABCというのがあって、Aはairway、Bはbreathing、Cはcirculation。空気が気道にはいり、酸素が呼吸で取り込まれ、血流を循環していくというわけである。気道の確保はABCのなかでもとりわけ重要である。
 意識がない患者さん、とくに、意識がもう戻らないであろう患者さんについて、気道をたもちつづけるためにはどうしたらよいか。舌根が落ち込むことも、唾液を飲めないことも、根本的に変えることは難しい。窒息の危険を感じながら、そのままにしておくわけにもいかない。
 一つの、そして多くの場合にとられる方法は、気管切開術。のどから気管に向かって切開を入れて、のどぼとけの下あたりから気管にチューブを通す。そして、カフという風船状のものを気管の中で膨らませて気管に唾液が落ち込むのをふせぐ。
 気管切開術をおこなうかどうかを、家族に説明するが、微妙な問題を含んでいる。延命治療の問題。

小児患者さん

 この病院に来てから、救急外来で小児科患者さんも診るようになった。土日の午後から夜までなので、たいていの患者さんは、前日またはその日の午前に近くの小児科を受診しており、検査も受け、薬ももらっているのだが、にもかかわらず熱がさがらない、咳がとまらないなどの訴えで来られる。
 仕事としては、ただの風邪ではない肺炎などの疾患を見逃さないことが重要である。点滴治療などが必要か、入院治療が必要かなどを判断することも重要である。判断基準として、お母さんからみた印象、医師がみた印象、脈拍・血圧・体温などのバイタルサイン、診察所見があり、さらに、血液検査、レントゲンなどがある。
 まずは診た印象が重要だと思うが、ふだんの状態を知らないし、見逃したくない気持ちも強く働く。救急外来は、検査のできる施設であり、重症を見逃さないことが一番の仕事であるから、心配なら検査するのは間違いではない。しかし、白黒つかないグレーゾーンを小さくしていく努力が必要である。
 患者さんのお母さんから、何日発熱が続いたら来ればいいか、何日咳が続いたら来ればいいか、という相談もよく受ける。もっともなことだと思う。明確な基準はないと思う。おかあさんの不安・観察力・子供のもともとの状態などに左右されると思う。なので、これも結局「心配ならいつでも来てください」ということになる。大人の診療でも理論的には同じだが、小児科患者さんのほうが、より心配が強い印象。

8/01/2007

役割

 採血が非常に難しい方がいる。今日は、その方に採血をする必要があった。後輩の先生が、よく血管をねらって、見事に一度で採血した。すばらしいことだと思う。ひるがえって、自分の役割は。後輩の先生がわからないことを調べたり、後輩の先生が出来ない時に代わりにやったりすることだろうか。だとすれば、もっと症例でわからないことを調べたり、それをまとめたりする作業を、自分のメインの仕事に据えなければなるまい。結局自分の先輩の先生に聞いているのでは、淋しい。

中途半端

今日はアメリカ人の先生と久しぶりにあった。患者さんについて発表し、それについて参加者で議論するのだが、今回は自分は発表せず後輩の先生にお願いした。自分の役割は、みんなに質問したり、議論をリードすることとも思ったが、それはアメリカ人の先生の役目のような気もして、結局は中途半端になってしまった。留学の準備もまだ出てきていないし、こんなことではいけない。それが済まないと、先生にもちゃんと合わせる顔がなく、実際のところタイムオーバーになってしまう恐れがある。仕事は毎日寝に帰るというほど遅いわけではない。空いた時間は、あるのだが。

7/31/2007

問い合わせ

 他の病院をかかっている患者さんが来院した場合、以前の病歴を知るために他の病院に問い合わせることがある。前の病院からのお手紙をもって来る場合もあるが、手書きで読めなかったり、情報が不十分なこともあるからだ。相手にしてみれば、突然に電話されて困ることもあるかと思う。保険病名や処方薬のみを教えてくれるときもあるし、検査データなどを改めて送ってくれることもある。自分がそのような問い合わせを受けたら、すぐに答えられるだろうかと思う。かかりつけ医であれば、患者さんをよく把握しており答えられるのかなとも思う。

猫のOscar

最近、医学雑誌にちょっと読み物風の記事が増えた。先週号にはこんな話があった。

猫のOscarは、アメリカにある某老人ホームに住んでいるが、彼は特殊な能力を持っているので、ただのペットではなく、スタッフとして扱われている。というのも、彼は、入居者の方々を見回って、そのうち亡くなるまで間もない人を見分けることができるので、そういう入居者を見つけたら、その部屋でじっとしている。看護師などが、オスカーがそこにいるのを知ると、彼らも入居者の死期が近いことを悟って、家族に連絡する。そうやって、もう25人もの入居者の死期を知らせてきたという。

7/30/2007

ビデオシリーズ

New England Journal of Medicineにある、ビデオシリーズをよくみる。気管内挿管などの救命にとって重要な行為や、末梢静脈・中心静脈・動脈など血管を刺す行為、胸やお腹にたまった水を針で刺して抜いてくる行為などについて、それぞれ解説している。
 前にいた病院でも、いくつかのビデオがつくられていたが、イメージトレーニングをするのにこれらの教材は有用だと思う。確認すべきポイントなどもよくまとまっている。手技も、免許制のようなものにして、何回見学した、とか、何回デモ経験をした、とか、監督者のいる時に何回やった、とかが必要なようにしてもよいと思う。
 ただ、これを作っている当のアメリカでは、これらの行為は専門家がするようにと徹底されている。点滴も、IVチームという専門家がとるので研修医がすることはほとんどない。急変しても、気管内挿管を内科医がすることはない(当直の麻酔科医などがする)。

検査を拒否した場合

今週からアメリカ人の先生が来る。どうすれば、うまく来年以降につなげていけるか。まず会ってみるべきであろう。準備がいまだに進んでいないので、とても困ったことになっている。明確な志望動機や、自分の売り込みをしなければ。
 患者さんが検査を拒否した場合、どうするか。まずはその理由を聞く。そして、必要な理由をもう一度説明し、拒否する理由を尊重しつつ、たとえば痛みについては痛み止めを使うなどの対応があることを説明する。同時に、検査が本当に必要か、ほかの手段はないかを考える。急がないなら、いったん話は止めにする。患者さんの家族に相談することもある。