研修医時代に教わったことは、ある意味「作法」であり「教え」である。それがどういう理由であるか、本当にそうなのか、などについては、ときに批判的考察をしたにせよ、面と向かってつっかかったりはしなかった。
診察のときにまず眼を触るやつがあるか、触られて負担に感じない手などから診察しなさい(脈をとるなど)、というのは作法である。病状を説明するときに「~がね、~だからね」と語尾に「ね」をつけるのは止めなさい、「まず○○について説明します、そして◇◇について説明します」というように順序だてて話しなさい、というのもマナーである。
心がけなども学ぶ。知識と技術を得るのがもちろん本分である、しかしその先に必要なのは勇気であると習った。健康を喪失した患者が弱い立場にあることを知り、病院を離れれば患者ごとにちがう社会背景・生活があることを知って接するようにと習った。
メスの持ち方などと同じようなものかもしれない。いまの病院で思うのだが、ここの先生方は基本的に「教え」「作法」を学ぶという姿勢が希薄である。自ら学び、考えることが異様に重視されているので、批判的考察を表出せずにわかりました、とは絶対に言わない。「ふーん」という感じである。
こう書いてみると、いまの病院のほうが先輩後輩なく意見をたたかわせる「よい」環境にみえる。まえの環境は、わるく言えば軍隊的、体育会系なところともいえる。私は、そういうものは本来好きではないのだが・・。
学年にほとんど差がない人を「教える」場合、与えられるのは一日の長で得た、確立していない経験に過ぎない。それでも、生き抜くのには役に立つはずと思って共有しているのである。得られるものはとりあえずもらって、あとから取捨選択してもらうのが効率的と思うのだが。