4/28/2019

時間の質と量

 外来をしていると、「先生は他の曜日は来てないんですか?」と言われることが時々ある。筆者は常勤なのでそんなことはなくて、他の曜日のうち勤務の日は、病棟・透析室・カテーテル室・手術室などにいる(実際はほかにも、医局・食堂・トイレなどにいる)。
 
 医師が勤務中にどこで何をしているかは、医師自身にとって重要なのはもちろんのこと、社会的にも一層注目されてゆくと思われる。燃え尽きるような働き方、医療の質がさがるような働き方は是正されなければならないからだ。

 しかし、どのような働き方がよいかという話になると、答えはひとつではない。

 よく聴かれるのは、「最近の医師は、カルテと書類に時間をとられるあまり、電子カルテのスクリーン前に貼り付いて、患者と過ごす時間がない」という論調だ。このたびJAMAに発表された、米国1年目の内科研修医を対象にした調査(doi:10.1001/jamainternmed.2019.0095)でも、インターンが患者と過ごすのは勤務時間の13%。いっぽう電子カルテを読み書きする時間は43%だった。

 なにか、問題があるだろうか?上記論文は「以前は患者と過ごす時間が25%であった」と書くことで、それくらい必要だと言いたげだ。ただ筆者は、25%なければならない、というわけでもないと考える。

 もし、診察で必要な情報が得られ、日々病状と治療方針の説明ができているのなら、13%でも医療の質は保たれる。医局でいろいろ調べてから書く電子カルテは、病棟の廊下やナースステーションで走り書きする紙カルテよりも、時間はかかっても充実した内容で、むしろ医療の質を向上させているかもしれない。
 
 ただし、患者に「ひと」として接して、気持ちに寄り添った診療を行うには、13%は不十分だろう。身体診察による癒しの力をTED talkで強調して話題になったAbraham Verghese先生のように、「医療はデータ収集や問題解決だけではない」と信じる人々も多い。筆者もいくつかの経験(こちらこちらの投稿なども参照)からそう信じるようになった一人だ。

 ではどうすればよいか?

 量と質の両方で考えてはどうか。

 量といっても残業はできないので、患者の前にいる時間を確保するために裏での仕事をできるだけ効率化する。前回投稿で挙げたオーダーセットやテンプレートだけでなく、入院サマリーと退院サマリーを同時に書く、コピペ「せずに」短時間で簡潔なカルテを書く(読む時間も節約できる!)、など工夫はたくさんある。

 質という意味でも、工夫できる。たとえば、椅子に座る、目を合わせる、うなずく、笑顔を見せる、途中でかかってきた電話を患者の前で「すみません、患者さんとお話しているので、また掛けなおします」と切る、短時間でもよいから複数回訪室してフォローする(「さっきお話した栄養指導はきょう2時半から入りましたよ」とか)、などだ。

 とにかく、「私はいまここにいて、あなたを気づかっています("I am here for you to care for you")」という態度を示すことだ。

 なお、こういった工夫をさらに知りたい読者は、Richard Colgan著"Advice to the Healer: on the Art of Caring"(『医のアート ヒーラーへのアドバイス』として訳本が刊行、全国の書店には2019年5月に並ぶ)も参照されたい。



 
 

4/19/2019

クールなプロフェッショナリズム

 外来患者枠は1人10分(30分枠に3人)あればよい方だから、どれだけ効率化しても外来はどうしても「押す」。それで、12時予約の初診患者さんを診るのが14時になることもある。

 そんな時は座りっぱなしで尻が痛く、消耗で頭がぼーっとしているので、(身体所見の診察か・・またにしようかな)と思うことも、正直ある。しかし、それでも診察したときに限って、大事な所見があったり、初対面の患者さんから「私は今、あなたが信頼できるドクターだと結論しました!」といわれたりする。

 筆者は日頃から、「効率化(オーダーセットやテンプレート)」、「チェックリスト化(抜けを防ぐ)」、「優先順位づけ(事前に出来ることは事前に、後でよいことは後にする)」などの、いわゆる「ライフハッキング」を礼讃している。
 
 そんな筆者であるから、上に挙げたエピソードで伝えたいメッセージも、「燃え尽きるまで闘いましょう」ではない。むしろ逆で、「その時その場所でその人に必要なことをするのが、結局一番の近道ではないか」ということである。

 一歩踏み込んで診察することで診断に至れば、不要な検査を避けることが出来る。また初診患者の信頼をその場で得ることは、以後の診察をずっとスムーズなものにしてくれるだろう。

 なお、こういう(やっぱりちゃんとやろう)という態度を指す用語に、「プロフェッショナリズム」がある。これは「熱血」とはちがい、「やるべきことをやりましょう」というクールさの漂う言葉だ。

 これを最初に講義してくれたのは米国で初期研修した病院のプログラム・ディレクターであったが、彼のいう定義がまさに、「押した外来の最後の患者の厄介な問題を、見て見ぬ振りしないこと」だった。 

 その卒業時には「プロフェッショナリズム賞」という(履歴書には書けないが)名誉な賞をいただいたものの、以後プロフェッショナリズムについて講義を受ける機会もなく、結局何なんだろうと考え続けてきた。

 『医のアート ヒーラーへのアドバイス(原著はAdvice to the Healer: on the Art of Medicine)』を訳そうと思ったのも、そのためである。さまざまな側面から詳しく例示されており、これを訳してようやく「こういうことなのかな」とつかめた気がする。

 本書は4月下旬に中外医学社より刊行される。もし参考になれば、幸いである。




4/11/2019

医のアート、という時のアート

 Richard Colgan著"Advice to the Healer: on the Art of Caring"が、筆者訳で『医のアート』として今月末に刊行されるのにともない、アートについて考えている。この言葉はよく「技術」や「技法」と訳されるが、それだと同様に訳されることの多い「スキル」や「テクニック」の意味合いが強くなり、「アート」とずれる気がしていた。

 そんなとき、今週の英Economist誌に、遺伝子編集技術などの合成生物学についての特集があるのを読んだ(下図は表紙)。遺伝情報を読み替えたり加工したりして医学をふくむさまざまな分野に応用する試みに、頭が吹っ飛ぶような(mind-blowing)衝撃を受けたが、もっと衝撃を受けたのは内容よりもコラムの質だった。





 特集の見出しは「生命を加工する技術が、すべてを変え始める日も近い(The engineering of living organisms could soon start changing everything)」と新聞的であるが、そのあとつづくコラムのタイトルは"A whole new world"。言わずと知れた、1992年のディズニー映画『アラジン』のテーマである。

 それだけならまだ、思いつくかもしれない。しかしさらに、段落ごとの節目に置かれた副タイトルまでもが"Shining, simmering, splendid"、"Unbelievable sights"、"Dazzling place I never knew"といずれも歌詞から引用されている。内容にもマッチしているし、「すごいね!」と読んでいて快哉を叫びそうになる。

 ただし、このようにタイトルや副タイトルを有名な作品から引用すること自体は、テクニックと言える。歌詞のshining、simmering、splendidはいずれもエスで始まっているが、これも「頭韻」という技法だ。

 いっぽうアートというのは、その一次元上の概念だと筆者は考える。つまり、コラムのアートとは、こういった技法をさまざまに組み合わせながら当意即妙さや読後の感動を極めてゆくということだ。それは日本語でいう「道」。詩歌や絵画、文章だけでなく、医療にも道がある(じっさい、「医道」という言葉もある)。

 それは、終わりがないという意味では気が遠くなったり厳しかったり苦しかったりするだろうが、「道中」にはいろいろ感動とか出会いとかがあって、その過程を楽しむこともできる。人生を賭けた、楽しく美しくやりがいのある追求。ここでいう「アート」の定義にしたがうなら、誰でも「アーティスト」になれる。

 

4/04/2019

サイエンスでアートに触れる喜び

 通勤路に桜並木があると、気軽に花見ができて便利だ。ある朝、「今年も咲いて偉いねえ」と思いながら桜並木の下を歩いていると、桜が花びらでなく花(blossom)単位で落ちていた(写真)。




 なんだか可愛そうになって、手にとってみた。すると、花びらの間から同じ数のガクが出ている。そうとは知らず驚いた私の頭の中に、下図のような二つの5角形(赤、茶)が思い浮かんだ。



これらの頂点、あわせて10個をつなげば、下図のような10角形(緑)ができる。ここまでくると、だいぶん円に近い。



 こうして倍々にしていけば、辺の総和が限りなく円周に近づく・・・とぼんやり思ったころ、職場に着いた。それからは、桜や多角形のことは忘れて仕事していたが、お昼休みに「2のn乗」角形の辺の総和をnで表現して、nを無限大にすればいいじゃない?と思いつき、(お薬屋さんの説明でもらえるメモパッドで)作図を始めた。

 そのためまず、「2のn乗」角形の一辺a(n)から、「2の(n+1)乗」角形の一辺a(n+1)を求める。nが2の場合を例にすると、オレンジ線から緑線を求めることになる(nがあがっても、同じ要領でできる)。

 


 そのために下図のように補助線をひくと、ピタゴラスの定理などから赤・黄色線が以下のように決められる(赤とピンクの和は、円の半径だから1)。



 
 ここで、赤・黄色・緑線でできる三角形についてもういちどピタゴラスの定理を当てはめると、下図下段のような漸化式ができる。




 エヌが2の時、a(2)は√2(一辺1の正方形の対角線)。「2のn乗」角形の辺は「2のn乗」個あるから、その一辺の長さa(n)に「2のn乗」をかければ辺の総和になる。いっぽう、エヌを無限大に飛ばして近似する円は半径1だから、2π。整理すると、下図下段のようなπにいたる極限の式ができる。




 泣きそうなほど美しいが、これはちょっと、手計算できない。電卓でも(関数電卓でも)、煩雑だ。それで、エクセルのマクロ機能をつかってnを上げていった。すると、256角形までで小数点以下4桁までπがでた(下表の赤字)。




 さらに、16384角形まで行くと、小数点以下7桁までπがでた。



 
 筆者には、「自然に数学が隠れている!」というような「サイエンス」っ気は一切ない。あくまでも、「アート」としての花鳥風月を愛で、堪能している。こういう「花見」もあるということだ。

 そしてここまでたどり着いた時、筆者はじつは「ああ、生きててよかったなあ」と思った。医学の父ヒポクラテスは、「人生は短く、アートの道は長い」と言った。この感情が、「アート」に触れる喜びなのかもしれない。


[2019年4月13日追加]上記のようなことだけでなく、桜について知ってほしいことが、ほかにも沢山あることがわかった。阿部菜穂子著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(2016年刊、岩波書店)を、ぜひ読んでほしい。英Economist誌が"You may never look at cherry blossom in the same way again"と英訳本を紹介しているのもうなずける。


[2019年6月6日追加]上記の「2のn乗」角形と「2のn+1乗」角形の面積比を求めて、nを無限大に飛ばすことで得られるのが、Viète(ヴィエト)の公式である。これは1593年に発表された、nを無限に飛ばして円周率に近づく人類初の公式だった。原始的だが、2とルートだけでπにいたる美しい式だ。


ただし、
a(n) = √(2+a(n-1))
a(1) = √2 


 ただし、この方法論ではいくら工夫しても小数点以下の数10桁までしか収束しない。飛躍的に正確さが増すのはアーク・タンジェントを用いたマチンの公式(1706年)の登場後になる。また、100年たってオイラーが三角関数の公式にまで一般化した(下記のエックスが「π/2」の場合がヴィエトの公式になる)。




 筆者は「数学好き」というわけでは必ずしもないが、こういうかたちで数学と接するのは、やはり好きである。