12/09/2020

感応外来

 患者の話を聞いて「そうなんですね、私も・・」と自分の経験を伝える医療者もいれば、伝えない医療者もいる。筆者は典型的な後者である。

 患者から見聞きするさまざまな悲惨さや過酷さを、私達が経験したことがなかったからといって、それらに共感できないわけではない。逆に、経験したことがあったからといって「患者の感じた苦しみ」と「私が感じた苦しみ」は同じではない。

 大切なのは、「患者にとってどうであるか」を尋ねたうえで、「それはきっと大変に違いない(経験したことはないけれども)」と、脳や心の同じ部分を光らせることだと思っている。
 
 しかし、こないだちょっと大変な状況の外来で、思わず戒めを解いて「じつは私も・・」とやってしまった。

 すると、自分の身体によい意味の鳥肌が立ち、細胞と細胞のあいだを温かい何かが流れていく感じがした。相手もそうだったかはわからないが、とても前向きに診察を終えることができた。

 41歳で末期がんのため死去したボストンの病院弁護士ケン・シュワルツ氏は、医療者が「ひと」として患者に心を開くことを「医療のルビコン河を渡る」と表現し、それが苦しい闘病生活の中で何よりも有難かったと記している(こちらも参照)。

 何でもかんでも「私も」と相槌を打つのは不適切にしても、効果的に用いるのは、ありかもしれないと思った。



YouとMeで「ゆめ」
こちらから引用)