光がやって来るタイミングは、①自分の心が悲鳴をあげ、「もう暗闇は嫌だな」と心底思ったとき、②最初は小さかった苦しみが次第に大きくなり、痛みが膨れ上がっていき、「もう限界だ」というところまで来て、ようやく光がやってくるそうだ(加藤秀視『ONE』)。ということは、どうしようもない絶望に陥ることも決して無意味ではなく、むしろ希望が訪れる前兆だとも言える。この話を読んで思い出すのが、レジデント時代に一個後輩だった先生だ。
UCLA卒で引く手数多だったのに、親戚の世話をしたいと、よりによって東部で交通の便がいいうちを選んだ。しかし外来のpreceptorと馬が合わず、能力に瑕疵がないのに6ヶ月間の1年目延長(米国にはそういう制度がある)、その間は病院に監禁状態で「宿題」を出されるという憂き目にあった。何の前触れもなくプログラムディレクターの部屋に呼び出され、報告書と処分書を前に座らされて即座に「サインしろ」と言われたらしい。アンフェアだと義憤していた。
私は彼とpreceptorが一緒だったので他人事と思えず、また彼とよく話す機会があったし、彼がいい奴で優秀な奴だと知っていた(延長処分を受ける人のなかには、受けるべくして受ける人もいるのだが、彼は違った)ので、このような理不尽に対して指をくわえていることができず、よく励ました。彼をクルマに乗せ公園に連れて行き、ダウンタウンが見渡せる芝生の丘に折りたたみチェアを置いて座り、一緒に眺めた暮れていく夕日はいまでも鮮明に覚えている。
その彼に、私は自分が読みおわったViktor Franklの"A man's search for meaning"(邦題『夜と霧』)をあげた。どんな理不尽でも、耐えて忍べばかならず道は開けるから、あきらめないでと。喜んでくれて、本にサインしてくれと言うから、自分が書いた本でもないのにサインした。そして彼は理不尽な延長を終え二年目に上がり、まったく問題なく卒業し、故郷のベイエリアに戻り、臨床もしつつ医学学習モバイルツールの会社も立ち上げつつ、公私共に幸せに暮らしている。これなど、暗闇を受け入れて突き詰めると、光に出る好例と思う。