英Economist誌2015年7月27日付の記事によれば、これから10年で東京圏の後期高齢者(75歳以上人口)は175万増えて、572万人に達するという(シンクタンク日本創成会議、東京圏高齢化危機回避戦略より)。当然医療や介護の需要が増大して、現状でもすでに不足している供給とのミスマッチが広がる。ドイツの学者Florian Coulmas氏はこれを経済の繁栄と医療の発展がもたらした一種のdystopia、catastrophic successと呼ぶが、世界に先駆けて東京圏がこの問題に取り組むことになる。
というか、もう取り組んでいる。意思疎通の取れない高齢者が非特異的な症状でつぎつぎに救急に連れてこられ、入院対応医が行くとたいてい施設の人も家族もおらず(子供だったら多分こんなことはないのに、高齢者は平気で独りにされる)、入院中は医学的な治療よりもADL低下のアセスメントと対策、ケア環境の確認と転院調整がメインになる。それは時間のかかるプロセスで、これからもっと時間がかかるようになるだろう。行き場のない患者さんたち。そして急性期病院のベッドが慢性期の退院調整待ちの患者さんで埋まっていく。
もうひとつのcatastrophic successと私が思うのは、意思決定能力のない患者さんに対して(あっても)、家族の負い目と医療者の罪悪感と病院の経営面からどんどん高度な生命維持治療や延命治療が行われ「おじいちゃんおばあちゃんが一秒でも長生き」することだ。Abraham Lincolnは"In the end, it's not the years in your life that count. It's the life in your years."と言ったが、緩和ケアが幅広く行われ、かかりつけ医が患者さんの意思決定能力のあるうちに家族と一緒に時間を掛けて今のうちからadvanced directive、POLSTをとるのが望まれると私は思う。
こんなことは、考えないに越したことはないのかもしれない。確かに、考え出したらやってられない。未来のことは誰にも分からないし、解決策がないなら悩む時間が長くなるだけ損だということもある。誰か頭のいい人が考えればいいことなのかもしれない。でも現在の医療が、昭和初期の日本の政情のように漠然とした不安を前にしていることに気づいてしまったものは仕方ない。まあ昭和初期から日本はいろいろあっても立ち上がってきたわけだし、これも何だかんだいって過ぎ去るのだろう(高齢化の次は人口減だ、ひとつひとつ心配していたらきりがない)。