5/17/2019

忘れられない一言 57

 いま手技をしているので、その手技が必要かどうか判断を求められることも多い。

 もちろん純粋な適応の有無、メリットとデメリットなどを考慮して患者さんに説明して決めるのであるが、こんなとき私の頭をよぎるのが、2010年にレジデンシーしていた病院の循環器内科メンターから教えられたこの言葉だ。


 「床屋に行ったら、髪を切る


 元は“Don’t ask the barber whether you need a haircut.”という表現で、少なくとも1970年代までは遡れるようだ。床屋には髪を切るという利益の相反があって、髪を切るべきかを客観的に判断するのは難しい(たいていは、必要といってしまうだろう)。

 あの投資家、ウォーレン・バフェットも、バークシャー・ハサウェイの総会で1994年、「どの業種や会社が伸びるかといった予測は、予測者のバイアス以外の何者でもなく一銭の価値もない(それを信じるのはナイーブ過ぎる)」として、この表現を使っている。

 もっとも、この言葉にあまり解説はいらないようだ。筆者が帰国してから使った相手はいままで100%、すぐさま意を察して思わず笑ってくれる。手技がもっとも分かりやすいが、コード・ステータスや抗がん剤、果ては透析などにもいえることだ。

 だれもが自分の専門や信条に縛られる。何がベストなのかを見失わぬよう戒めなければならない。また、もちろん床屋であるからには、間違って頭皮や耳まで傷つけないよう腕を磨くことも大切だ。

それにしても、このメンターには本当にお世話になった。枝葉末節よりも、本質をつかむ力をつけてくれた方で、そういえば雰囲気もウォーレン・バフェットに似ていた(写真)。英語表現もたくさん習ったし、患者さん思いの本まで書いておられ、いつかその後を追おう!という気にさせられたものだ。

 こういう、ロールモデルの先生との出会いは、本当に貴重だ。自分も、なんらかのよい影響を周囲に与えられれば良いのだが。





[2019年6月追記]床屋の話が出たついでに、筆者のいまの師匠はことあるごとに「床屋さんのことを考えると、頭が下がる」と言う。筆者は床屋さんに行ったことはないが、同感だ。美容師さんも、時間内にすべきこと(シャンプーやマッサージ、トークまで含む)をしてくれる。物腰や手つき、すべてが洗練されていて、行くたびプロだなと思う。

 もちろん彼らは学校にいるときからマネキンを切り、卒業してからは下積みして、仕事が終ってから「カットモデル」を無料で切り・・と長い準備をして腕を磨いている(写真は、町田杏子が沖島柊二のカットモデルを引き受ける、2000年のドラマ『Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜』第一話より)。


(出典はこちら

 
 そう考えると、医師がマネキンを切り始めたのは最近のことだし、「カットモデル」は「教育病院ですので研修医が診療することをご了承ください」という掲示で同意されたことになっている、患者だ。訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』4章には、医療者は患者に奉仕するというが、患者も医療者に奉仕していると書かれているが、本当だなと思う。



5/08/2019

忘れられない一言 56

スピッツもらいましたか?

「え?」

「スピッツもらいましたか?」

「え?」


 筆者は腎臓内科医をしているので、外来ではほとんどの患者さんで尿検査をオーダーする。しかし、来院してから採尿できない可能性のある方には、事前に容器を渡して当日おうちで尿を採取してもらっている。

 その容器は紙コップでも何でもよいのだが、スピッツ管(写真)が用いられることが多い。おそらく栓がしやすく持ち運びやすいことと、先が尖っているのでそのまま遠心して上清と沈査に分離できることが理由だろう。



 
 冒頭の会話スキットでは、医療補助の方が患者さんの家族にその確認をしていたのだが、一般にはスピッツとは犬の種類、または1987年結成のJ-POPグループ(写真は1994年『空も飛べるはず』MVより)だろう。それで、何のことだか分からなかったと思われる。




 じつは筆者も知らなかったが、スピッツ(spitz)とはドイツ語で「先の尖った、鋭い(英語のpointedやsharpに相当)」という意味。試験管の名前も先が尖っていることに由来するし、バンド名も、ボーカルのマサムネさんがその語感と意味を気に入って付けたとか。

 「容器のことです」と付け加えて解決したが、そのあとしばらく『空も飛べるはず』のメロディー、1996年に主題歌となったドラマ『白線流し』の名シーンなどが頭に去来し、まるで診察室に爽やかな風が吹きぬけたように感じられた。

 なおこのように、医療者で通じる言葉(英語では、lingoなどという)と、患者さんや家族の受けるイメージに違いがある例は枚挙に暇がない。また逆に、医療者は意図しない語感を患者さんや家族に与える言葉も、ある。

 たとえばアーチスト®(カルベジロール)というαβ遮断薬。アーティストとは書いていないが、もちろん"artist"という意味である。「アーチストという薬をお出ししましょうね」と言われれば、なんだか自分がアーティストになったような気がするかもしれない。

 じっさいこの薬は高血圧などを「創造的かつ個性的に治療する」、という意味から命名されたらしい。

 もちろん、商品名だろうが、ジェネリックな一般名だろうが、外国での名前(英語圏ではCoreg®が一般的)だろうが、薬効成分は同じである。しかし、名前の印象というのは意外と大きいから、たとえばジェネリックに変更する時などはきちんと説明する必要があるだろう。