「私がなろうと望み、なれなかったものが、私を慰める」
これは、下の英文に相当する。
"That which I have strived to be, and am not, comforts me."
これは英国詩人ロバート・ブラウニングの詩、『ラビ・ベン・エズラ』にでてくる一節を意識したものだ(オスラー卿も講演で引用している)。
What I aspired to be,
And was not, comforts me:
有名な詩なので当然訳されていて、comfortは「慰める」とするのが通例だ。それで筆者のその訳も合わせたのだが、どうしようもない違和感を感じ、出版ギリギリまで別の訳にするか迷った。「力づける」「悔いはない」「だから頑張れる」のように、ポジティブな言葉にしたかったのだ。
しかしその後、内村鑑三『ヨブ記講義(講義は1920年に行われ、現在は岩波文庫・青空文庫に所収)』を読み、彼の説明に納得した。少し長いが、ヨブ記16章1-5節についての解説から引用する(フリガナは除いてある)。
◯そもそも「慰め」とは何を指すか。『言海』を見るに、邦語の「なぐさめ」はなぐより出た語であって(風がなぐ(凪)の類)、「物思いを晴らして暫し楽む」を意味するという。他の事に紛らして暫し鬱を忘れるというのが、東洋思想の「慰め」である。されば東洋人はあるいは風月に親しみ、あるいは詩歌管絃の楽しみに従いて、人生の憂苦をその時だけ忘れるを以って「慰め」と思っている。従ってなお低級なる「慰め」の道も起り得るのである。正面より人生の痛苦と相対して堂々の戦をなさんとせず、これを逃避して他の娯楽を以てわが鬱を慰めると言うのはまことに浅い、弱い、退嬰的な態度である。聖書的の「慰め」は決してこの種のものではないのである。
◯英語において「慰め」を comfort という、勿論もちろん慰めと訳しては甚はなはだ不充分である。 fort は「力」の意である故、 comfort は「力を共にする、力を分つ」を意味するのである。そもそも人が苦悩するのは、患難災禍に当りて力が足らざるためである。その時他より力を供することがすなわち comfort である。故に真の力を供するのが真の comfort である。しからざるものは comfort ではない。殊に天父より、主イエスよりこの力を供せられるのが、キリスト教的の「慰め」である。かくの如き力を供給する慰めが真の慰めである。ヨブの三友の慰めの如きは、むしろ力を奪うところの慰めであったのである。
いかがであろうか。従軍慰安婦の訳であるcomfort womenがおかしな英語になるように(クオーテーション・マークをつけて表記される)、また米国ホテルチェーンのComfort Innが決して「慰み宿」などではないように、"comfort"と「なぐさめる」は同じではない。このように、文脈によって違う訳語をあてるのも、翻訳の(困難かつ)醍醐味と言える。