3/04/2015

Time to Heal 序章

 次に、序章。

 20世紀が「健康の世紀」と呼ばれているのはほとんど偶然ではない。アメリカ人はその間、平均寿命が一気に延びる、乳幼児死亡率が減る、歴史が始まって以来ずっと人類を悩ませ続けた感染症と低栄養による疾患がコントロールされる、がん・冠動脈疾患・脳梗塞など現代の致死的な疾患に対して重要な進歩がみられる、などの恩恵に浴してきた。CTスキャン・臓器移植などの驚異的な技術は、遺伝医学とバイオテクノロジーの進歩と同様にひとびとを驚かせた。最近できた羊のクローン(そしてヒトのクローンも出来るかもしれないこと)と、WHOが拡大した健康の定義(病気がないだけでなく、身体的・精神的・社会経済的・スピリチュアルに幸せなこと)と、どちらがより空想科学のように聞こえるか分からない。 
 米国医療がこれらを達成するのに、わが国の医学部と教育病院(または、これらを併せたよくある呼び名であるアカデミック医療センター)ほど大事な要素はない。これらの重要さは、わが国の医師を養成し、新しい医学知識を作り出し、革新的な診療を提案しまた評価し、手に入るもっとも高度な医療を提供することにある。20世紀のほとんどの間、一般の人々は感心すべきことに好意的に医学部と教育病院のニーズに応じてきたし、それにより教育・医療機関は発展してきた。しかしながら、アカデミック医療センターは発展すると同時に閉鎖的で狭量になり、世紀の終わりには人々はそれまで伝統的に続けてきたサポートの多くを取りやめた。2000年が近づくにつれ、医学部と教育病院は危機に陥り、将来のアメリカの医療の質が落ちるのではと心配されるようになった。このアカデミック医療センターの矛盾―こんなに発展してわが国の健康を支える中心だったのに、いまやこんなにも危機的なこと―が、以降に続くページで語られる物語の中心的な関心事である。

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 本書は20世紀の初めから現在までの医学教育の歴史を、各部分をつなぎ合わせて総合的に書いて提供することを意図している。主な関心は医学部の4年間―卒前医学教育の時期―である。しかし、本書は他にも医学部入学前のトレーニング、選抜過程、レジデンシーと専門医教育(卒後医学教育)、研修医療機関、社会とそれに貢献するために生まれたアカデミック医療センターとの複雑なやりとりなど、多くのトピックについて取り上げている。話は医学教育のための資金調達、医学研究の拡大、医学部の新設、マイノリティーや女性の医学生が直面した問題、変わる教育と研究の関係、科学技術時代に医のアートを保つ難しさ、医学教育が伝統的に扱ってきた患者層の浸食、医学部と教育病院の複雑な関係、医学部と大学の複雑な関係、アカデミック医療センターと周辺地域との複雑な関係などに及ぶ。 
 この歴史はおおかた人々についての研究であり、単に医療教育機関についての研究ではない。最も重要な課題は医学生、研修医、大学教育スタッフ、事務、患者が経験してきたことを捉えなおすことと、一世紀の間に医療界の日々の生活がどのように変容したかを記述することである。同じように、本書はこれらの異なるグループどうしの関係、たとえば大学教育スタッフがどのように医学生と研修医に対して権威を示したか、教わる側がどのように教える側が知らないことは知らないと正直であるように促し続けたか、学ぶ側がときに厳しい研修条件にどう対処したか、そして医学生と患者の関係がどのように変化したかなども調べている。本書はまた、入学特別枠や「タウン」(市中の医師)と「ガウン」(大学教育スタッフ)の今も続く敵対関係など、医学教育の歴史におけるいくつかの見苦しい出来事についても検証している。 
 伝統的に、医学史の著作のほとんどは医学の知的な発展(「内からの」やり方)あるいは社会・経済・政治の文脈からみた医学(「外からの」やり方)を強調してきた。本書は両方の見方を統合しようと試みたのが特徴である。この議論にとって、医学の内部からの発展、とくにどんどん還元主義的(分子レベルの分析)になる医学知識がもたらした医学教育と医療の変化は重要だ。しかし、本書はまた医学教育を外部からの文脈から解釈している。外部からの文脈とは、アメリカの高等教育、変容する医療提供システム、20世紀の主な文化の動向などだ。 
 社会学的な見方は強く本書に浸透している。観察で際立っていたのは、医学教育の力は限られているということだ。とくに、思いやりがあって、社会的に責任を持ち、すべての臨床場面で患者さんの擁護者となれるような医師を育てる能力が限られている。実に、医師の振る舞いの多くは、医学の道を選ぶもとになる性格や価値観、その時代の文化的背景、臨床をしながら報われたと感じさせやる気にさせる特定のことなど、医学部の外からの影響を反映している。医学教育と社会のあいだの交渉の結果が、その時代の医師たちの力量に現れると認識することが重要である。現在の医師たちがどんなであるかは、単にアカデミック医療センターの努力ではなく、私たちがどんな人たちでどんな社会かを反映している。人々は結局、その国に見合っただけの力量の医師に診てもらうしかないといっても過言ではないだろう。 
 医学部ごとが多くの点で似通っていることを考えれば、アメリカ医学教育についてそれらをまとめて話すことも可能である。全ての医学部は認定を受けるために統一された標準に従っているし、どの医学部でも教えている知識の総量は同じだし、全ての医学部の卒業生はアメリカのどこででも働く資格がある。しかし、医学部どうしの間に著しい多様性が存在することを認識することも同等に重要である。私立医学部もあれば、公立医学部もある。ほとんどは臨床業務に大きな教育病院を利用しているが、新しい医学部の多くはより小さな市中病院を利用している。研究活動のレベルは医学部ごとに大きな差があり、プライマリケア医の育成やマイノリティ人種の教育など、特別な使命への責務についても同様だ。地域ごとの独特な伝統のない医学部などない。本書で個々の学校について説明することは不可能だが、この共通性と個別性という二重の見方はアメリカの医学部を十分に理解するのに重要である。 
 時には、アメリカ医学教育の変容を強い外力への医学部と教育病院の対応として解釈したくなることもある。ここで言う外力とは、大恐慌、第二次世界大戦、NIH、私的医療保険、メディケアとメディケイド、マネジドケア運動などだ。しかし、この見方は部分的にしか正しくない。なぜなら、個々の医学部と医療機関ごとに外力への対応が異なることも重要だからだ。この事実は、なぜある医学部は相対的に上昇して他の医学部は相対的に下降するのかを説明するのに有効だ。したがって、米国医学教育の歴史を人または個性なしに考察するのは大きな誤りであろう。 
 個々の違いが重要であったからこそ、米国医学教育の発展は予測できる、起こるべくして起こるようなものにはならなかった。あらゆる時点で選択がなされた―そしてあるときはよい結果、またあるときは有益でない結果になった。もし今世紀の終わりにアメリカの医学部と教育病院が不安定な立場にあったとしたら、それは誰かが彼らを害そうと願ったからではなく、自ら悪い決断をしたか、決断によって予測しなかった結果になったからだ。しかし、そうしようと思う人にとっては、医学教育を建設的な方向に動かす機会はまだある。歴史の教訓は、未来はあらかじめ決められているのではないということ、それに個人に変化の余地が残されているということだ。 
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 本書の範囲が広いことを考えると、主要なテーマを列挙するのは役立つかもしれない。 
 第一次世界大戦までには、アメリカでは近代的な医学部と教育病院が作られており、アメリカ医学教育における最初の革命(1910年に医学教育について影響力の大きな報告書をまとめたエイブラハム・フレクスナーの名を取ってしばしば「フレクスナー革命」と呼ばれる)は完成していた。この革命は医学部が大学を拠点にし、大学スタッフが独自の研究に従事し、学生が実験室での研究や本物の臨床業務など「アクティブな」学習に参加するよう求めた。革命の起源は19世紀なかば、医学はどのように教えられるべきかについて議論が起こった時期にさかのぼる。続いて、知的レベルの革命は社会経済レベルの革命をもたらし、それにより新しい教育の考え方が実践されるようになった。この革命の間に暗黙の社会契約が成立した。社会は医学教育と研究に必要な財政的、政治的、道義的なサポートを提供する。その見返りに、医療施設は社会貢献のために存在するということを忘れず、その成功はアカデミックな業績の質と、アメリカの医療水準を高く維持できるかによって計られる。 
 初めから、近代アメリカ医学部は教育・研究・臨床という三つの使命をもっていた。しかし、これらの活動の相対的な重要性は時と共に変わった。第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、教育の使命が最重要であった。教育はそれ自体が目的であり、臨床は教育の質を高めるのに必要な限りにおいてのみ求められた。大学スタッフは学習者(この時期に、医学生だけでなくインターンやレジデントも含むように拡大した)のニーズに特化した教育環境を提供していることを誇りにしていた。 
 医学部は教えると同時に研究にも従事していた。1930年代までには米国は医学研究において世界でトップになっていた。しかし、第二次世界大戦のあと、ほとんどの医療施設では教育に代わり研究が支配的な活動になった。これは主に国立衛生研究所の拡大による。1965年までに、研究を盛んに行う医療機関では政府のグラントと契約が予算の60%以上を占めるようになった。しかし、全ての医学部が富を共有し、だいたいどこの大学でも、研究事業が大戦前には想像できなかったほどのサイズにまで成長した。 
 第一次世界大戦から第二次世界大戦までの期間が教育の時代、そして第二次世界大戦から1965年までが研究の時代であるように、1965年以降は臨床の時代である。1940年代から、アメリカで私的医療保険が広がるとともに、医療機関はどんどん私的医療をするようになっていた。しかし、1965年にメディケアとメディケイドが成立した後は、何百万人の「病棟」(慈善活動として診ていた)患者が一夜にして支払い能力のある患者になったので、大学における臨床の量が急増した。15年のうちに、だいたいどこの医学部でも臨床事業の規模が研究・教育事業のそれを上回り、大学はたいてい収入の50%以上を私的医療から得るようになった。臨床による歳入が増えることで、とくに臨床部門で大学スタッフの数と給料が桁違いに増えた。 
 三つの時代それぞれのあいだに、医学部は巨大に成長した。1910年には、トップ医学部であっても年間予算は10万ドル程度であったろう。1940年までには、その予算は100万ドル、1965年までには2000万ドル、そして1990年までには2億ドルかそれ以上になった。ほとんどの医学部で、この成長は予定外で、新しいプログラムが外から次々と積み上がってできた。1980年代までには、医学部はもはやまとまりのある組織ではなくなっていた。以前はお互いに関係しあって何らかのバランスを取っていた教育、研究、臨床活動は、それぞれがもはやお互いにバランスをとりあうことができないほど拡大した。 
 医学部が成長するにつれ、おおくの明らかな変化が起こった。医学生の教育は、以前は医学部の中心的な使命(であり医学部特有の活動)であったが、1980年代にはアカデミック医療センターの行う臨床活動の副産物になってしまった。世紀を通じて、医学部は大学の一部と医療提供システムの一部に位置づけられてきた。いま、医学部の大学とのつながりは大幅に弱まり、それに対して医療提供システムとのかかわりは増大している。世紀を通じて、アカデミック医療センターは学習者のニーズや医学部が医療提供システムの改善を助けるようにという社会の希望を重視するスタイルとは反対に、主に大学スタッフ主導で発展した。 
 米国において教育が大学において高い優先事項なことはまれであったが、受けられる医学教育の質は高く保たれた。これは、すべての医学の勉強は結局自己学習だったからだ。世紀を通じて、アメリカの医学教育の高い質は正式なカリキュラムよりも、やる気があり有能な学生を集めて枠にはめない学習機会を与えることに依存してきた。この学習環境に必須だったのはよい実験室と図書館、豊富で多様な患者、それに刺激を与える教師と同僚だった。なかでも最も重要なのは、患者とその病態が調べられ理解されるように学習者が患者と過ごす十分な時間を与えられる設定で医学教育が行われることだった。 
 1980年代と1990年代には、マネジドケアの広がりと共に、アカデミック医療センターをサポートする環境が急速に変わり始めた。マネジドケア(医療費と医療サービス提供のさまざまな新しい方法の総称)は医療提供システムの重大で長期にわたる問題を直す試みとして起こった。しかし、じきに、マネジドケアの多くの問題、なかでもそのアカデミック医療センターへの悪影響が明らかになった。マネジドケアの組織は医療に対して最低限の医療費しか払わないと主張した。この新しい環境では、教育・研究・慈善活動としての診療・高度専門医療などにより市中病院よりもコスト高のアカデミック医療センターは直ちに財政難の脅威にさらされた。 
 この状況への各アカデミック医療センターの対応は様々だったが、だいたいどこも、量を診れば損失を補えるのではないかと臨床事業をさらに拡大するように追いやられた。入院日数を減らし回転率を上げ、短時間の矢継ぎ早な外来診療をするなどして大学スタッフが患者をすばやく診れば、より多くの患者を診ることができるだろう。かつて育成した医師と新しく生み出した知識を成功の尺度にしていた医学部と教育病院のスタッフは、施設の利益率と市場価値にいっそう集中して、教育と研究の状況は少ししか議論しなくなった。 
 1990年代後半までには、ほとんどの施設は競争原理と市場原理に対応して臨床収入を維持するかあるいは増大させることに概ね成功した。しかし、その過程で、ほとんどの医学部でアカデミック事業の質を維持するのが大変になった。多くの医学部で、臨床教員と研究者はもっともっと多くの患者さんを診るよう強いられ、ときには教育の責務を置き去りにしなくてはならなかった。さらに密かで深刻だったのは、患者さんが受ける診療のスピードが加速して、教育課題が達成できるように学生と研修医が患者さんを診るのに十分な時間を与えることを真髄の特徴としてきたアカデミック医療センターの学習環境が台無しになったことだ。それと同等に気がかりなのは、よい診療とは短い診療、患者は「消費者」、そして施設スタッフはサービスの質や苦しみを和らげることよりも財政バランスシートについてよく話すことだ、というような商業的な環境でわが国の医師を育てることの長期的な影響だった。そのような環境では、医学生達が医学を学ぶ前から持っていた利他主義と理想主義が正しいと認められることはほとんどなかったからだ。 
 皮肉なことに、1990年代に明らかになったのは医学部と医療施設にとってよいことが医学教育にとって必ずしもよいとは限らないということだった。医学部が財政的に健全でスタッフに高い給料を支払うには教授たちがより多くの時間を診療に割きより少ない時間を教育と研究に割く必要があった。同様に、医学部と教育病院が財政的に健全であるには、学習者が患者とやり取りしてももはや為にならないほど患者をつぎつぎに入院し退院させる必要があった。1990年代の終わりには、医学教育者たちの多くが大学スタッフの診療を支持していたし、医学研究も支持していた。しかし、教育を熱心に擁護する者はおどろくほど少なかった。教育は医学部の伝統的な他の使命と比べて圧倒的に危機に瀕していた。 
 こうして、2000年が近づくにつれて、アメリカ医学教育は二度目の革命期―20世紀のあいだずっと国に役立ってきた医学教育のインフラを覆す時期―に入った。アカデミック医療センターの学習環境は浸食され、大学スタッフによる研究は減り、スタッフの収入は19世紀の営利目的の学校がそうであったように教育や研究よりも主に私的な臨床業務に依存していた。社会と医学教育のあいだにあった社会契約は双方向から壊れた。社会はもはやアカデミック医療センターに十分な財政的政治的サポートをしなくなった。同様に、医療施設は内向きに成長した。彼らは教育を守るために犠牲を払うことにも、質の高い診療を求めて立ち上がる伝統的な責任を果たすことにも消極的なようだった。 
 医学教育と医療は不可分に結ばれているので、アメリカの人々はこれらの出来事が与える影響を憂慮した。医学教育の質が低下し臨床研究が次第に減っているのにアメリカの医療の質が高く維持されているとは想像しにくかった。同じように、医療施設が診療の水準を決め、維持する伝統的な責務を果たすのに消極的なのは、医療の質にとってよい兆候とはいえなかった。1990年代になると、これは小さな関心事ではなく、マネジドケア下の医療の質について多くの深刻な質問が主要メディアで取り上げられた。医学部が信託された患者への義務を医師たちに浸透させていたかは明らかでない。1990年代には社会、医療システム、組織に貢献する医師の話は多かったが、医療教育者から医師が患者の友人、カウンセラー、代弁者である必要についての声は驚くほど少ししか聴かれなかった。 
 21世紀が近づいたが、医学部は依然わが国の教育システムにおいて冠にはめられた宝石の一つほど重要な部分に位置し、アメリカ医療の質は高く維持されていた。実際にこうむった被害よりも気がかりなのは、最近の傾向にもとづいき予測される今後の被害だ。医学教育が直面する最も重要で直接的な課題は、社会貢献という重要な価値観あるいは教育、研究、診療水準を決めるという重要な使命を妥協せずにいかに急速に変化する環境にするかだ。アメリカの一般の人々にとっては幸運なことに、二度目の改革がちょうど始まっている。それは、医療職の中にある人にも外にある人にも社会と医学教育がよりよい状態になるよう影響を及ぼす時間が残っていることを意味している。