千束稲荷にある胸像(筆者撮影) |
芥川龍之介が4才の時、樋口一葉は24才で亡くなっているので、活躍した時代は別であるが、もしかすると一葉作品が龍之介が預けられた芥川家で読まれていたかもしれない。この二人を対比する人はあまりいないだろうが、二点が印象的だった。
一つ目は、執筆環境である。芥川は、執筆環境には拘らないと言いながらも「明窓浄机(めいそうじょうき)」な書斎を求め、子供が騒げば怒鳴って黙らせた。いっぽうの一葉は吉原裏に引っ越して駄菓子屋を営む傍ら、喧騒のなか長屋の奥で執筆した。
筆者は「なるほど明窓浄机か、よい環境は必要だな」と思ったが、一葉の環境と執念に触れて反省した。なお、当時断筆を考えていた一葉はこの時期に『琴の音』と『花ごもり』を発表し、ここでの見聞を『たけくらべ』などに活かして才能を開花させた。
二つ目は、医療環境である。一葉は、1896年4月に結核の症状がでたものの、医師にかかったのは8月であった。作品を絶賛した森鷗外を通じて青山胤通らの診察を受けたが手遅れで、当時治療がなかったこともあり、同年11月23日この世を去った。
なお、青山医師はその2年前に香港の疫病調査でペストにかかり生死をさまよった。Wikipediaによれば、樋口一葉はそれを聞いて「知らない人ではない仲なので、殊に哀れ」と述べていたそうだ。青山医師もまた、一葉の死に思うところがあっただろうか。
芥川には、近所に住み「家族そろってお世話になっている」友人の主治医、下島勲がいた。しかし『或旧友への手紙』によれば2年間ばかり死ぬことばかり考えていたという芥川の「ぼんやりとした不安」は、下島医師には相談していなかったのだろう。
その下島医師は、なんと芥川を看取っている。医師にとって、患者が自殺するほどショッキングなことも、そうそうない。きっと当時の感慨を記したものがあるのだろうが、思うところがあったと思われる。
それにしても、絵画や音楽と違って言葉で伝えるはずの文学に、言葉では伝えられないものを伝えることができるというのは、興味深いことである。最後に、前述の一葉作『花ごもり』にある、お新という登場人物のこんなセリフを紹介する(現代仮名遣いに改めたもの)。
うき世というものの力はいかほどの物やら目には見えねど、かなしきも嬉しきも我が手業にあたわぬこととあきらめぬる身は、 つらき時はつらき時の来たりぬと思い、 嬉ししき時は嬉しきとおもう、 そのほかには何ともなされぬではござりませぬか