6/09/2011

Trained to avoid primary care

 米国内科学会Annals of Internal Medicineには、On being a doctorという投稿コーナーがある。今週号はUCSFの内科二年目レジデントの文章で、タイトルは“Trained to avoid primary care”。共感できる内容が多く、興味深く読み、うちの後輩たちにも読むよう勧めておいた。
 内科研修といっても、プラマリケアに割かれる時間は10%しかないし、総合内科のメンターなどいない、優秀で惹かれる先生は皆専門科だ、コンサルトしてアドバイスを貰いに数え切れないほどの電話をするうち、電話の反対側の立場に立ちたいと思うようになったと彼はいう。
 それに総合内科の外来は週に半日で切れ切れに設定されているうえ、行ってもアテンディングは毎回のように異なるし、保険会社、薬局、福祉関係の書類を記載したり、保険会社に電話してもたらい回されたり何分も保留で待たされたりで、有益な時間はほとんど奪われてしまう。
 総合内科がかなりdisorganizedなのに対し、専門科の外来はより焦点が絞られているし、ひと月ぶっ通しで同じ先生に教わるので教育の質もインテンシブで高くなる。勤務時間もきっちりして伸びることがない。これでは総合内科医になるなと言われているようなものだ。
 しかし彼はプライマリケアに進むことを決意する。それはプライマリケア医が患者さんのことをよく知っていて、病気でなく人を診る科で、患者さんの人生や命に対して何か関わったという実感を持てる遣り甲斐があるからだ。彼は、あるホームレスの患者さんを失った時にそれに気づく。
 プライマリケアは雑用ばかりで、家族と過ごす時間も奪われるだろうし、いつか情熱を失うかもしれないけれど、それらは今言った遣り甲斐に比べれば些細なことだと彼は言う。Nobleな理想で、偉いと思う。逆に言うと、決断に至るまでの彼の迷いと不満がそういう形で昇華したわけだ。
 彼の文章に提案はない。問題提起をして、反響と対策は読者に委ねられている。それは決して不完全なアプローチとは言えない。むしろ「みんなで考えようよ、何とかしようよ!」という呼びかけは「こうしなきゃだめだ!」と言うよりフェアで広く人々に訴えることができる。さて、どうしますか。