3/19/2015

課題

 「AだからBできない」ということは、多い。私もそうだ。しかしそんな時人は実際、「Bしたくないから、しないということを自ら選んでいるのであり、そのよい口実のためにAという理由を探している」のだという。アドラー心理学によれば、このAは『人生の嘘』と呼ばれる。Cannotではなく、Will notというわけだ。

 逆に言えば人生は自分が決めるし、決めたことを変えるのも自由だ。フランクルはこういっているそうだ、環境や教育、また素質ではなく自分が自分を決める。人間であるということは、このあり方しかできない、他のあり方ができないということでは決してなく、人間であるということは、いつでも他のやり方ができることなのである、と。

 だから「AだからBできない」という理由探しは止めにして、やらなければならないことは腹をくくってやらなければならない。失敗するはずがないという楽天主義ではなく、現実を見据えて一生懸命もがく楽観主義で。二匹の蛙がミルク壺に落ちて、片方は悲観して溺れてもう片方は一生懸命もがくうちミルクがチーズに固まり壺から出られたという寓話もある。

 アリストテレスによれば素材因、作用因、形相因、目的因があって物事が行われるという。彫刻にたとえれば大理石(素材因)、彫刻家(作用因)、題材・イメージ(形相因)、作ろうという意志(目的因)。新しい職場、自分の能力、仕事の内容の三つだけが揃っても、やろうという目的意志がなければ何事も成し遂げられない。

 しかし一人でできることには限界があり、社会生活には周囲の助けが必要だ。そのためには黙っていては駄目で、他の人に言葉で依頼しなければならない。ただ相手の助けを期待したり当然視してはいけない。他の人はあなたの期待に応えるために生きているわけでもないからだ(逆もまた然り)。しかし善意があれば助けてくれるだろう。

 10人いたら、一人くらいは何をしても自分のことを良く思わない人はいる。だが二人くらいは何をしても受け入れてくれる。残りは状況による。自分のことを良く思わない人や、自分を型にはめようとする人に心煩わせることはない。自分を受け入れてくれる人を向いて、自由に生きることだ。自分をよく思わない人がいるというのは自由に生きる代償だ。

 自由に生きれば(自由に生きなくても)失敗することもある。自由に生きて失敗すれば自分の責任だが、自由に生きなくて失敗したときに「俺のせいじゃない」と責任転嫁することもできない。結局選んだのは自分なのだから。しかし、失敗は起こると思っておいたほうがよいし、それで自分の価値が下がるわけでもないし、人の評価を気にする必要もない。

 自分のやりたいように生きることを周囲が諸手を挙げて賛成してくれると言うことは稀だと思ったほうがいい。抵抗があるから自由に生きられる。鳩は真空を飛んでいるのではなく、空気という抵抗があるから、それにあらがい支えられて飛ぶことができるのだ。などということを岸見一郎著『アドラー心理学入門』(ベスト新書)で読んだ。

3/07/2015

私達のチームへようこそ(^o^) 4/4

4.退院サマリーの書き方

 よいプレゼンをしてよいカルテを書き、問題点を効果的に解決していけば、患者さんをよくして退院させてあげられます。そして私達は先生に、退院サマリーが退院前日に書けていることを求めます。大変に感じるかもしれませんが、それは「あるコツ」さえ知っていればそんなに難しくありません。コツとは以下の二点です。

① 入院時サマリーを活用する

 入院時サマリーを記載した時点で、退院サマリーの半分は終わっています。なぜなら、主訴・入院時病歴・入院時現症・入院時検査所見はすでにそこにあるからです。ですから、入院サマリーを書いた時点で、退院時サマリーのうち書ける部分は埋めてください。

② カルテを活用する

 カルテのアセスメントとプランを、上記のフォーマットで必要十分な情報を容れて書いたら、それはほとんどサマリーの「入院時経過」です。各プロブレムについて、たとえば私はこんな風に書きます:

#腎盂腎炎 入院時に発熱、右CVA叩打痛、膿尿、細菌尿を認めた。CTRXを開始し、3日後に解熱。尿培養で大腸菌が陽性、抗生剤を感受性のあるCEZに変更して計14日投与した。今回3度目だが、普段からトイレを我慢してしまうとのことで、予防のために排尿をより頻回にするようお奨めした。

 入院最終日のカルテのアセスメントとプランは、このようになっているはずです。だから、入院最終日に入院後経過がかけるわけですね。同じ要領でその他のプロブレムについても書き、最後に「プロブレムAもBもCも軽快した(あるいは外来治療が可能になった)ため、何月何日にどこどこに退院となった」と終われば出来上がりです。

 それから退院サマリーで気をつけてほしいことは、要約することです(それでサマリーというのです)。だから、入院中のくねくねした診断過程や、あっちこっちに迷走した治療過程は、できるだけ簡略化して書いてください。その際には「後から読む人にその情報が必要か?」と考えるとよいでしょう。
 
終わりに

 ここまで、私達と一緒に働く上で助けになるだろうことを書きました。これを書いたのは、最初にこのようなアドバイスを教えてあげたほうが、あとから「もっと早く教わっておけばよかった」と後悔せず済むと思ったからです。いきなり全部習得するのは無理ですから、少しずつやりましょう。では、先生とお仕事をご一緒するのを楽しみにしています!


私達のチームへようこそ(^o^) 3/4

3.カルテの書き方

 先生は私達のチームを代表してカルテを書くのですから、求められるレベルは高いです。そこで、私達は先生が質の高いカルテを書けるようにサポートします。フェローの先生がいるときは彼らがオーダーを出してくれますし、カルテも彼らが見直してくれるでしょう。私達が先生のカルテに求めるのは以下のような点です。

臨床的な問題点が揃っている
病態を把握している
チーム回診で議論、計画した内容を反映している
読みやすく的確な表現で書かれている

 形式はプレゼンと同じSOAPフォーマットで書いてください。SとOについてはプレゼンのところを参照していただくとして、ここではアセスメントとプランの書き方をお話しましょう。一番最初に意識してほしいのは、5W1Hです。

 WHO 誰が WHAT 何を
 WHEN いつ WHERE どこで
 HOW どのように  (HOW MUCH どれだけ)
 WHY なぜ

 これらを意識してみてください。そのうえでどう書くかについて、ここに私が使うアウトラインを示し、それぞれの要素について解説しましょう。

 症例要約
  問題点1
   -診断根拠・原因
   -治療
   -経過
   -今後・予防
  問題点2
   (以下同様)

症例要約:簡単にどんな症例かわかるような一文です、これがあると症例を知らない人が読んでもすぐにどんな症例かわかります。私がよく書くのは次の形式です。

 [重要な既往・重要な治療歴など] ある [年齢・性別] が [症状、あるいはすでに診断がついていれば診断] で [入院日] に入院、 [重要な経過]。

例 ANCA関連腎炎の再燃でステロイド・アザチオプリン治療中(ベースラインCr 2mg/dl)の60歳男性が、利尿剤とARB増量による腎前性AKI(Cr 3mg/dl)で11月1日入院、AKIは輸液後に軽快したがステロイド増量による高血糖に対してインスリン導入、教育中。

問題点:診断が付いているなら、診断。付いていないなら、症状。診断や症状のみならず、かけるなら重症度や原因も書きましょう。

例 糖尿病性腎症、CKDステージ4
例 夜も眠れないほど重度の掻痒

診断根拠・原因:診断の根拠となる症状、バイタルサイン、診察所見、血液検査所見、画像所見、その他診断の決め手となる検査結果を書きます。結果待ち検査も書きます。【ステップアップ!】診断の原因の原因まで書けたら、立派な医師です。

例 (肺炎)発熱、呼吸器症状、低酸素血症、胸部X線。培養、尿中抗原は結果待ち
例 (誤嚥性肺炎)もともとの脳梗塞後の嚥下機能低下+鎮静剤による意識レベル低下

治療:「抗生剤」「降圧剤」など医学生レベルの記載ではなく、「クスリの名前」「用量」「いつから何日目」を記載してください。そうしないと、次になにをしたらいいのかわからなくなります。

例 ロサルタン 80mg 一日二回、11/29に40mgから増量
例 LVFX 500mg 24時間ごと、11/30に48時間ごとから変更(腎機能改善)

経過:何を追っているのかを具体的に明確にしましょう、そうでなければよくなっているか悪くなっているかもわかりませんね。

例 解熱、酸素化改善、呼吸数改善、CRP改善
例 痒みは夜間眠れる程度に改善したが、日中少しまだあり、頓用のクスリを1回内服している

今後、予防:ここがその日の私達のプラン、「で、どうするの?」の部分です。【アドバンス!】ただ「こうしよう」ではなく、「Aを目標にBをして、Cに気をつけながらDをフォローして、EになったらF」と先を読むプランを書けると優秀な医師です。

例 抗生剤を静注で継続、培養結果がでたらそれに合わせて変更、トータル14日で終了予定
例 血液透析で2Lを目標に除水、血圧をフォロー、血圧低下時には除水を下げる

 質の高いカルテが書けるようになると、たくさんの良いことがあります。一つ目は、頭の中が整理されます。二つ目は、退院サマリーがすぐかけます(後述)。三つ目は、情報提供書がすぐにかけるようになります。そして四つ目は、読む人に「できる」と印象づけ、院内での評価が上がります(覚えて置いてください、先生のカルテをみんなが読んでいることを)。Good luck!


私達のチームへようこそ(^o^) 2/4

2.プレゼンの仕方
 先生の一番の見せ場、それは回診時のプレゼンです。私達は先生に、カルテと同様なSOAPフォーマットを求めます。すなわち、 
S(ubjective):患者さんの症状
O(bjective):客観的なデータ
A(ssessment):アセスメント
P(lan):プラン 
 です。それぞれについて簡単に説明しましょう。 
S:「よくなった」では何がどう良くなったのかわかりません。先生は私達チームを代表して診察しているのですから、痛みが10/10から5/10になったとか、食欲が改善して朝ごはんを全部たべたとか、具体的に聞いてきてください。それから、前日午後からの大きな動きがあれば、それもここで説明するとスムーズです。【アドバイス!】担当看護師さんに「〇〇さんはどうですか?」と一言聞けるようになると、できる医師です。 
例 昨夜3時頃にせん妄で転倒しました
例 昨夜に緊急開腹手術をうけ、術後はICUに転床しました 
O:まず最初にバイタルサインを述べてください。それから診察所見、検査所見。朝忙しいのはわかりますが、先生は私達チームを代表して診察しているのですから、私達が知りたい所見を報告することが期待されます。たとえば皮疹だったら範囲の変化、肺炎だったらcrackleの変化など。また私達は腎臓内科なので、頚静脈怒張、足の浮腫、体重、尿量などがとくに重要です。それから腎臓内科なので、血液検査では基本生化学(Na、K、Cl、BUN、Cr)がとくに重要です。 
A/P:前項の『カルテの書き方』の要領で、各プロブレムについて
 ① 原因をどう考え ② どんな検査や治療をしていて
 ③ それにどう反応しており(あるいはしておらず)  ④ それについてどう考え ⑤ 今日は何をしたいのか 
 を述べてください。先生が各患者さんのプロブレムを把握することは、診療にとってとても大事なことです。回診でプレゼンするときに(えっと、この患者さんにはどんなプロブレムがあったっけ…)とあたふたするのも最初は仕方ないことです。しかし自分なりに工夫して、できるだけプロブレムを漏らさず、それらについて自分の考えとその日やりたいことを考えてください。
 
 とにかく、間違ってもいいから自分の考えを持つことが大事です。わからない時は、わからないといってくれてOKです、そんな時こそ私達はよろこんで教えます。ここでのやり取りにこそ教育的な価値があり、だからこそ回診では研修医の先生がプレゼンするのです。そうでなければ、ただの言いなりになってしまいます。難しいと思いますが、少しずつやっていきましょう。


私達のチームへようこそ(^o^) 1/4

 以前、腎臓内科(といっても一般内科の患者も取っていたが)ローテーター向けに書いた資料を公開する。
はじめに 
 ようこそ、私たちのチームへ。このチームは、初期研修医のあなたに期待されること、働き方などがほかのチームと少し違います。だから、それらについてこうして最初に説明することにしました。 
1.先生に期待される三つのこと 
わからないことを聞く
うそをうつかない
楽しくやる 
①について:私たちが先生に最も期待することは、先生が学ぶことです。そして私たちが最も大事と考える仕事は、先生が知らないことを見つけて教えてあげることです。先生が知らないことは、先生のせいではありません。私達も恩師に知らないことを全部聴いて、全部教わって成長してきました。いまでもそうです。それに、先生の質問に私達が答えられないこともあるでしょうし、そこから診療の重要なカギが見つかることもあります。ですから、どんどん分からないことを聞いてください。 
②について:私たちは「これは問診しましたか?」「これは診察しましたか?」「この検査データはみましたか?」「これについては考えましたか?」とたくさん聞きます。先生がすべての答えを持っていると期待しているのではなく、患者さんの診療の質を高めるためです。私たちは先生がどれだけ優秀でも、先生が知らないことをみつけて教えるのが仕事です。だから恐れずに、「知りません」「できませんでした」とためらいなく言ってください。 
③について:私達は『仕事は厳しく、職場は楽しく』をモットーに働いています。仕事中は分からないことを聞かれて萎縮したり、忙しくてふてくされたりすることがないよう配慮しますし、お昼ご飯など休憩中は仕事の話をあまりしません。それは、各人が最も機能するのは各人が自分らしくある時で、各人が最も自分らしくあるのは各人が楽しいときだと信じているからです。だから、楽しくやりましょう。楽しくなければそういってください、楽しくするよう工夫します。




3/04/2015

Time to Heal 目次

 最後に、目次。この本は、アメリカの教育にかかわるファカルティーなら誰でも持っている本だから日本でも役立つかなと思って私も買った(翻訳を出版社に持ちかけたこともあるが興味あるひとは原書を読むだろうとのことで没になった)のだが肝腎の自分が読んでいなかった。いま時間があるから読んでみよう。
第一部 社会契約を果たす:医学教育が人々から信託をうけて信頼をつかむまで 
1.システムを作る
 進歩的な医学教育
 資金調達
 医療と大学
 教育病院の出現
 社会との契約を作る 
2.戦間期のアメリカの医学部
 教育
 研究
 大学スタッフの文化
 多様性と発展
 ハーバード医学部の発展 
3.卒前の医学教育
 入学選抜
 不確定さを扱う訓練
 隠れたカリキュラム
 学生生活
 教育の限界 
4.卒後医学教育の発展
 インターンシップとレジデンシーの創造
 監督下から責任へ
 研修医を選ぶ
 ストレスとサポート
 卒後医学教育と人々の関心 
5.教育病院
 大学と一緒になる
 時間の存在
 病棟業務 
6.アカデミック医療センターと社会の人々
 タウンとガウン
 貧しい人々の診療
 医学教育と国全体の健康 
7.第二次世界大戦と医学教育
 戦争のための動員
 病気との戦い
 医学的楽観主義の極致 
第二部 マンモス大学時代の医学教育:豊かな時代に成長する研究と医療 
8.研究の優位性
 連邦政府による善行の時代
 知性の進む方向が変わる
 アカデミックな伝統の衰退 
9.臨床業務の拡大
 アカデミック医療センターと医療需要の増加
 アカデミックな価値の持続
 学習環境の保存 
10.卒後医学教育の成熟
 レジデンシーの民主化
 サブスペシャリティー研修の発展
 変わる研修医の生活 
11.忘れられた医学生
 進化するカリキュラム
 変わる医学生
 より多くの医師を育てる
 教育の地位の格下げ 
第三部 崩壊する社会契約:浸食される大学の価値、低下する公共性、始まる医学教育の第二次革命 
12.メディケア、メディケイドと医学教育
 エスカレートする臨床業務
 医療システムの一元化に向けて
 大学の理想とする価値の反転 
13.抗議と公民権運動の時代における医学教育
 学生運動
 好戦的になる研修医
 マイノリティー
 女性 
14.ストレス下におかれるアカデミック医療センター:外圧
 都市の衰退
 患者の獲得競争
 政府との新しい敵対関係 
 限界の時代の夜明け 
15.ストレス下におかれるアカデミック医療センター:内部のジレンマ
 分子の医学、いなくなる教師たち
 変化のない改革
 卒後医学教育のジレンマ 
16.内部の倦怠
 かじのない船
 人々の信託としてのアカデミック医療センターの衰退 
17.コスト抑制とマネジドケアの時代における医学教育
 市場への隷属
 なくなる時間、浸食される学習環境
 積極的な言葉、対策の行動 
18.第二次革命期
 独占所有的なシステムの再出現
 医学教育が時代に適切でなくなっていく
 社会契約を復元する 
文献 
索引

Time to Heal 序章

 次に、序章。

 20世紀が「健康の世紀」と呼ばれているのはほとんど偶然ではない。アメリカ人はその間、平均寿命が一気に延びる、乳幼児死亡率が減る、歴史が始まって以来ずっと人類を悩ませ続けた感染症と低栄養による疾患がコントロールされる、がん・冠動脈疾患・脳梗塞など現代の致死的な疾患に対して重要な進歩がみられる、などの恩恵に浴してきた。CTスキャン・臓器移植などの驚異的な技術は、遺伝医学とバイオテクノロジーの進歩と同様にひとびとを驚かせた。最近できた羊のクローン(そしてヒトのクローンも出来るかもしれないこと)と、WHOが拡大した健康の定義(病気がないだけでなく、身体的・精神的・社会経済的・スピリチュアルに幸せなこと)と、どちらがより空想科学のように聞こえるか分からない。 
 米国医療がこれらを達成するのに、わが国の医学部と教育病院(または、これらを併せたよくある呼び名であるアカデミック医療センター)ほど大事な要素はない。これらの重要さは、わが国の医師を養成し、新しい医学知識を作り出し、革新的な診療を提案しまた評価し、手に入るもっとも高度な医療を提供することにある。20世紀のほとんどの間、一般の人々は感心すべきことに好意的に医学部と教育病院のニーズに応じてきたし、それにより教育・医療機関は発展してきた。しかしながら、アカデミック医療センターは発展すると同時に閉鎖的で狭量になり、世紀の終わりには人々はそれまで伝統的に続けてきたサポートの多くを取りやめた。2000年が近づくにつれ、医学部と教育病院は危機に陥り、将来のアメリカの医療の質が落ちるのではと心配されるようになった。このアカデミック医療センターの矛盾―こんなに発展してわが国の健康を支える中心だったのに、いまやこんなにも危機的なこと―が、以降に続くページで語られる物語の中心的な関心事である。

* * *

 本書は20世紀の初めから現在までの医学教育の歴史を、各部分をつなぎ合わせて総合的に書いて提供することを意図している。主な関心は医学部の4年間―卒前医学教育の時期―である。しかし、本書は他にも医学部入学前のトレーニング、選抜過程、レジデンシーと専門医教育(卒後医学教育)、研修医療機関、社会とそれに貢献するために生まれたアカデミック医療センターとの複雑なやりとりなど、多くのトピックについて取り上げている。話は医学教育のための資金調達、医学研究の拡大、医学部の新設、マイノリティーや女性の医学生が直面した問題、変わる教育と研究の関係、科学技術時代に医のアートを保つ難しさ、医学教育が伝統的に扱ってきた患者層の浸食、医学部と教育病院の複雑な関係、医学部と大学の複雑な関係、アカデミック医療センターと周辺地域との複雑な関係などに及ぶ。 
 この歴史はおおかた人々についての研究であり、単に医療教育機関についての研究ではない。最も重要な課題は医学生、研修医、大学教育スタッフ、事務、患者が経験してきたことを捉えなおすことと、一世紀の間に医療界の日々の生活がどのように変容したかを記述することである。同じように、本書はこれらの異なるグループどうしの関係、たとえば大学教育スタッフがどのように医学生と研修医に対して権威を示したか、教わる側がどのように教える側が知らないことは知らないと正直であるように促し続けたか、学ぶ側がときに厳しい研修条件にどう対処したか、そして医学生と患者の関係がどのように変化したかなども調べている。本書はまた、入学特別枠や「タウン」(市中の医師)と「ガウン」(大学教育スタッフ)の今も続く敵対関係など、医学教育の歴史におけるいくつかの見苦しい出来事についても検証している。 
 伝統的に、医学史の著作のほとんどは医学の知的な発展(「内からの」やり方)あるいは社会・経済・政治の文脈からみた医学(「外からの」やり方)を強調してきた。本書は両方の見方を統合しようと試みたのが特徴である。この議論にとって、医学の内部からの発展、とくにどんどん還元主義的(分子レベルの分析)になる医学知識がもたらした医学教育と医療の変化は重要だ。しかし、本書はまた医学教育を外部からの文脈から解釈している。外部からの文脈とは、アメリカの高等教育、変容する医療提供システム、20世紀の主な文化の動向などだ。 
 社会学的な見方は強く本書に浸透している。観察で際立っていたのは、医学教育の力は限られているということだ。とくに、思いやりがあって、社会的に責任を持ち、すべての臨床場面で患者さんの擁護者となれるような医師を育てる能力が限られている。実に、医師の振る舞いの多くは、医学の道を選ぶもとになる性格や価値観、その時代の文化的背景、臨床をしながら報われたと感じさせやる気にさせる特定のことなど、医学部の外からの影響を反映している。医学教育と社会のあいだの交渉の結果が、その時代の医師たちの力量に現れると認識することが重要である。現在の医師たちがどんなであるかは、単にアカデミック医療センターの努力ではなく、私たちがどんな人たちでどんな社会かを反映している。人々は結局、その国に見合っただけの力量の医師に診てもらうしかないといっても過言ではないだろう。 
 医学部ごとが多くの点で似通っていることを考えれば、アメリカ医学教育についてそれらをまとめて話すことも可能である。全ての医学部は認定を受けるために統一された標準に従っているし、どの医学部でも教えている知識の総量は同じだし、全ての医学部の卒業生はアメリカのどこででも働く資格がある。しかし、医学部どうしの間に著しい多様性が存在することを認識することも同等に重要である。私立医学部もあれば、公立医学部もある。ほとんどは臨床業務に大きな教育病院を利用しているが、新しい医学部の多くはより小さな市中病院を利用している。研究活動のレベルは医学部ごとに大きな差があり、プライマリケア医の育成やマイノリティ人種の教育など、特別な使命への責務についても同様だ。地域ごとの独特な伝統のない医学部などない。本書で個々の学校について説明することは不可能だが、この共通性と個別性という二重の見方はアメリカの医学部を十分に理解するのに重要である。 
 時には、アメリカ医学教育の変容を強い外力への医学部と教育病院の対応として解釈したくなることもある。ここで言う外力とは、大恐慌、第二次世界大戦、NIH、私的医療保険、メディケアとメディケイド、マネジドケア運動などだ。しかし、この見方は部分的にしか正しくない。なぜなら、個々の医学部と医療機関ごとに外力への対応が異なることも重要だからだ。この事実は、なぜある医学部は相対的に上昇して他の医学部は相対的に下降するのかを説明するのに有効だ。したがって、米国医学教育の歴史を人または個性なしに考察するのは大きな誤りであろう。 
 個々の違いが重要であったからこそ、米国医学教育の発展は予測できる、起こるべくして起こるようなものにはならなかった。あらゆる時点で選択がなされた―そしてあるときはよい結果、またあるときは有益でない結果になった。もし今世紀の終わりにアメリカの医学部と教育病院が不安定な立場にあったとしたら、それは誰かが彼らを害そうと願ったからではなく、自ら悪い決断をしたか、決断によって予測しなかった結果になったからだ。しかし、そうしようと思う人にとっては、医学教育を建設的な方向に動かす機会はまだある。歴史の教訓は、未来はあらかじめ決められているのではないということ、それに個人に変化の余地が残されているということだ。 
* * * 
 本書の範囲が広いことを考えると、主要なテーマを列挙するのは役立つかもしれない。 
 第一次世界大戦までには、アメリカでは近代的な医学部と教育病院が作られており、アメリカ医学教育における最初の革命(1910年に医学教育について影響力の大きな報告書をまとめたエイブラハム・フレクスナーの名を取ってしばしば「フレクスナー革命」と呼ばれる)は完成していた。この革命は医学部が大学を拠点にし、大学スタッフが独自の研究に従事し、学生が実験室での研究や本物の臨床業務など「アクティブな」学習に参加するよう求めた。革命の起源は19世紀なかば、医学はどのように教えられるべきかについて議論が起こった時期にさかのぼる。続いて、知的レベルの革命は社会経済レベルの革命をもたらし、それにより新しい教育の考え方が実践されるようになった。この革命の間に暗黙の社会契約が成立した。社会は医学教育と研究に必要な財政的、政治的、道義的なサポートを提供する。その見返りに、医療施設は社会貢献のために存在するということを忘れず、その成功はアカデミックな業績の質と、アメリカの医療水準を高く維持できるかによって計られる。 
 初めから、近代アメリカ医学部は教育・研究・臨床という三つの使命をもっていた。しかし、これらの活動の相対的な重要性は時と共に変わった。第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、教育の使命が最重要であった。教育はそれ自体が目的であり、臨床は教育の質を高めるのに必要な限りにおいてのみ求められた。大学スタッフは学習者(この時期に、医学生だけでなくインターンやレジデントも含むように拡大した)のニーズに特化した教育環境を提供していることを誇りにしていた。 
 医学部は教えると同時に研究にも従事していた。1930年代までには米国は医学研究において世界でトップになっていた。しかし、第二次世界大戦のあと、ほとんどの医療施設では教育に代わり研究が支配的な活動になった。これは主に国立衛生研究所の拡大による。1965年までに、研究を盛んに行う医療機関では政府のグラントと契約が予算の60%以上を占めるようになった。しかし、全ての医学部が富を共有し、だいたいどこの大学でも、研究事業が大戦前には想像できなかったほどのサイズにまで成長した。 
 第一次世界大戦から第二次世界大戦までの期間が教育の時代、そして第二次世界大戦から1965年までが研究の時代であるように、1965年以降は臨床の時代である。1940年代から、アメリカで私的医療保険が広がるとともに、医療機関はどんどん私的医療をするようになっていた。しかし、1965年にメディケアとメディケイドが成立した後は、何百万人の「病棟」(慈善活動として診ていた)患者が一夜にして支払い能力のある患者になったので、大学における臨床の量が急増した。15年のうちに、だいたいどこの医学部でも臨床事業の規模が研究・教育事業のそれを上回り、大学はたいてい収入の50%以上を私的医療から得るようになった。臨床による歳入が増えることで、とくに臨床部門で大学スタッフの数と給料が桁違いに増えた。 
 三つの時代それぞれのあいだに、医学部は巨大に成長した。1910年には、トップ医学部であっても年間予算は10万ドル程度であったろう。1940年までには、その予算は100万ドル、1965年までには2000万ドル、そして1990年までには2億ドルかそれ以上になった。ほとんどの医学部で、この成長は予定外で、新しいプログラムが外から次々と積み上がってできた。1980年代までには、医学部はもはやまとまりのある組織ではなくなっていた。以前はお互いに関係しあって何らかのバランスを取っていた教育、研究、臨床活動は、それぞれがもはやお互いにバランスをとりあうことができないほど拡大した。 
 医学部が成長するにつれ、おおくの明らかな変化が起こった。医学生の教育は、以前は医学部の中心的な使命(であり医学部特有の活動)であったが、1980年代にはアカデミック医療センターの行う臨床活動の副産物になってしまった。世紀を通じて、医学部は大学の一部と医療提供システムの一部に位置づけられてきた。いま、医学部の大学とのつながりは大幅に弱まり、それに対して医療提供システムとのかかわりは増大している。世紀を通じて、アカデミック医療センターは学習者のニーズや医学部が医療提供システムの改善を助けるようにという社会の希望を重視するスタイルとは反対に、主に大学スタッフ主導で発展した。 
 米国において教育が大学において高い優先事項なことはまれであったが、受けられる医学教育の質は高く保たれた。これは、すべての医学の勉強は結局自己学習だったからだ。世紀を通じて、アメリカの医学教育の高い質は正式なカリキュラムよりも、やる気があり有能な学生を集めて枠にはめない学習機会を与えることに依存してきた。この学習環境に必須だったのはよい実験室と図書館、豊富で多様な患者、それに刺激を与える教師と同僚だった。なかでも最も重要なのは、患者とその病態が調べられ理解されるように学習者が患者と過ごす十分な時間を与えられる設定で医学教育が行われることだった。 
 1980年代と1990年代には、マネジドケアの広がりと共に、アカデミック医療センターをサポートする環境が急速に変わり始めた。マネジドケア(医療費と医療サービス提供のさまざまな新しい方法の総称)は医療提供システムの重大で長期にわたる問題を直す試みとして起こった。しかし、じきに、マネジドケアの多くの問題、なかでもそのアカデミック医療センターへの悪影響が明らかになった。マネジドケアの組織は医療に対して最低限の医療費しか払わないと主張した。この新しい環境では、教育・研究・慈善活動としての診療・高度専門医療などにより市中病院よりもコスト高のアカデミック医療センターは直ちに財政難の脅威にさらされた。 
 この状況への各アカデミック医療センターの対応は様々だったが、だいたいどこも、量を診れば損失を補えるのではないかと臨床事業をさらに拡大するように追いやられた。入院日数を減らし回転率を上げ、短時間の矢継ぎ早な外来診療をするなどして大学スタッフが患者をすばやく診れば、より多くの患者を診ることができるだろう。かつて育成した医師と新しく生み出した知識を成功の尺度にしていた医学部と教育病院のスタッフは、施設の利益率と市場価値にいっそう集中して、教育と研究の状況は少ししか議論しなくなった。 
 1990年代後半までには、ほとんどの施設は競争原理と市場原理に対応して臨床収入を維持するかあるいは増大させることに概ね成功した。しかし、その過程で、ほとんどの医学部でアカデミック事業の質を維持するのが大変になった。多くの医学部で、臨床教員と研究者はもっともっと多くの患者さんを診るよう強いられ、ときには教育の責務を置き去りにしなくてはならなかった。さらに密かで深刻だったのは、患者さんが受ける診療のスピードが加速して、教育課題が達成できるように学生と研修医が患者さんを診るのに十分な時間を与えることを真髄の特徴としてきたアカデミック医療センターの学習環境が台無しになったことだ。それと同等に気がかりなのは、よい診療とは短い診療、患者は「消費者」、そして施設スタッフはサービスの質や苦しみを和らげることよりも財政バランスシートについてよく話すことだ、というような商業的な環境でわが国の医師を育てることの長期的な影響だった。そのような環境では、医学生達が医学を学ぶ前から持っていた利他主義と理想主義が正しいと認められることはほとんどなかったからだ。 
 皮肉なことに、1990年代に明らかになったのは医学部と医療施設にとってよいことが医学教育にとって必ずしもよいとは限らないということだった。医学部が財政的に健全でスタッフに高い給料を支払うには教授たちがより多くの時間を診療に割きより少ない時間を教育と研究に割く必要があった。同様に、医学部と教育病院が財政的に健全であるには、学習者が患者とやり取りしてももはや為にならないほど患者をつぎつぎに入院し退院させる必要があった。1990年代の終わりには、医学教育者たちの多くが大学スタッフの診療を支持していたし、医学研究も支持していた。しかし、教育を熱心に擁護する者はおどろくほど少なかった。教育は医学部の伝統的な他の使命と比べて圧倒的に危機に瀕していた。 
 こうして、2000年が近づくにつれて、アメリカ医学教育は二度目の革命期―20世紀のあいだずっと国に役立ってきた医学教育のインフラを覆す時期―に入った。アカデミック医療センターの学習環境は浸食され、大学スタッフによる研究は減り、スタッフの収入は19世紀の営利目的の学校がそうであったように教育や研究よりも主に私的な臨床業務に依存していた。社会と医学教育のあいだにあった社会契約は双方向から壊れた。社会はもはやアカデミック医療センターに十分な財政的政治的サポートをしなくなった。同様に、医療施設は内向きに成長した。彼らは教育を守るために犠牲を払うことにも、質の高い診療を求めて立ち上がる伝統的な責任を果たすことにも消極的なようだった。 
 医学教育と医療は不可分に結ばれているので、アメリカの人々はこれらの出来事が与える影響を憂慮した。医学教育の質が低下し臨床研究が次第に減っているのにアメリカの医療の質が高く維持されているとは想像しにくかった。同じように、医療施設が診療の水準を決め、維持する伝統的な責務を果たすのに消極的なのは、医療の質にとってよい兆候とはいえなかった。1990年代になると、これは小さな関心事ではなく、マネジドケア下の医療の質について多くの深刻な質問が主要メディアで取り上げられた。医学部が信託された患者への義務を医師たちに浸透させていたかは明らかでない。1990年代には社会、医療システム、組織に貢献する医師の話は多かったが、医療教育者から医師が患者の友人、カウンセラー、代弁者である必要についての声は驚くほど少ししか聴かれなかった。 
 21世紀が近づいたが、医学部は依然わが国の教育システムにおいて冠にはめられた宝石の一つほど重要な部分に位置し、アメリカ医療の質は高く維持されていた。実際にこうむった被害よりも気がかりなのは、最近の傾向にもとづいき予測される今後の被害だ。医学教育が直面する最も重要で直接的な課題は、社会貢献という重要な価値観あるいは教育、研究、診療水準を決めるという重要な使命を妥協せずにいかに急速に変化する環境にするかだ。アメリカの一般の人々にとっては幸運なことに、二度目の改革がちょうど始まっている。それは、医療職の中にある人にも外にある人にも社会と医学教育がよりよい状態になるよう影響を及ぼす時間が残っていることを意味している。

Time to Heal 緒言

 アメリカの医学教育の歴史を書いた本"Time to Heal: American Medical Education from the Turn of the Century to the Era of Managed Care"(2005年)の緒言と序章と目次を訳していたことを思い出した。興味がある人もいるかもしれないから、ここにシェアしよう。まず、緒言。

 本書は二つの課題を念頭に書かれた。一つ目は20世紀の初めから現在にいたるまでの医学教育の歴史を包括的に解釈して提供すること。二つ目は現在の「マネジドケア」時代において市場原理が医師たちの学習や診療にもたらした変化を読者に警告することだった。だから、話はより大きな診療の枠組み、それに現在患者、医療者、一般大衆のあいだにあるアメリカ医療に対する多くの不安に関係している。 
 以前に医学教育についての本「Learning to Heal:アメリカ医学教育の発達(1985年、Basic Books)」を書いた経験なくして本書を概念化することは不可能だったろう。以前の本では南北戦争から第一次世界大戦にかけてわが国の医学教育のシステムが作られる様子を調べた。この意味で、本書のための作業は1976年に始まった。しかし、新しい本を書く必要が私に明らかになったのはマネジドケアが急速に広まった1980年代後半であった。多くの医学部と教育病院はもはや教育と研究のプログラムを十分に支えらるだけの診療収入を得ていなかった。それより分かりにくいがしかし重要なことに、医学生と研修医の学習環境は浸食され、診療におけるプロフェッショナルな価値がないがしろにされていた。これらのジレンマの起源は1980年代以前にさかのぼり、単に敵対的な市場原理で説明することはできなかった。むしろ、これらの一部は20世紀後半のアカデミックな医療界それ自身のなかでの行動(あるいは行動を起こさなかったこと)から起こっていた。本書はこれらの出来事の理解を助けるために書かれた。 
 本書にとって最も重要な情報源は、医学部、病院、大学スタッフ、経営陣、学生、それに様々な私的公的機関からの非公開記録だった。これらにより得られた豊富で詳細な情報は、他の方法では入手不可能だった。研究の間に、私は代表的なサンプルとして全国にあるアカデミックな医療センターの約1/4を訪れた。もし特定の医療機関が他より多くテキストに出てきたとしたら、それはたいてい彼らの資料が他より豊富だったからだ。一般的に、記録の容量は1965年以降に特に多くなった。それは同時代の歴史を研究するときの困難な問題の一つをよく現している(たとえば、1932年から1956年までの米国医学部連盟執行行議会の議事録と議題は収納ボックス一箱に収まった。1957年から1991年までには42箱必要だった)。本書の注釈は関心ある読者のために意図的に長い。しかし、本書は参考文献にいちいち戻らなくても読めるし、誰もそれらに注意をそらされる必要はない。 
 このプロジェクトの初期の段階で早くも明らかになったのは、アメリカにおける医学教育の進化を十分に理解するには、それを幅広い社会的、文化的な文脈に置かなければならないということだった。だから、私は社会史、文化史、教育史、医療社会学について幅広く読んだ。注釈は私が本書を書く助けになった二次的な文献を読む際のガイドになっている。医学部と教育病院の歴史が実は20世紀のあいだアメリカ社会全体を変化させていったさまざまな社会的、文化的、政治的な力のプリズムであると分かったが、それは私のこの課題についての関心を減らすことはなかった。 
 本書は、各章や節が前後に何が書かれているか知らなくても個々で読めるように作られた。しかし、各章は密に関連しあっており、読者が全体を通して読んで単なる各部分の総和以上のものを得られれば幸いである。正確さを保証するためにはあらゆる手段を講じた。現在の医療環境は矢継ぎ早に変わるので、17章と18章で議論された内容の細部などは出版までの間に古くなっていないほうが驚きである。おそらく医学部や教育病院が新たに合併したり、以前に発表された合併が解消されたりしているだろう。しかし、そのような表層的な現象は、変化させる力、アメリカの医学教育が21世紀を前に直面する試練と機会、あるいは私たちが社会全体として未来の医療システムについてしなければならない選択の性質を変えることはないだろう。だから、読者は、最後の二章に書かれた分析を、たとえ近未来に状況が少し違って見えたとしても際立って重要と思えるはずだ。 
 本書が米国の医学教育と医療がどう進展すべきかについて異なる意見をもった読者いずれに役立つように、私は全編を通じて客観的でバランスを取るように努めた。本書を読むことによって未来を予測しようと思っている読者はがっかりするだろう。過去の出来事は起こるべくして予言されたとおりに起こったわけではないし、未来も同様だ。しかし、過去は現在の米国医療に強く影響している。だから、この歴史の分析が現在私たちが直面するジレンマに光をあて、私たちの医療システムの未来をどうするか決断するときにガイドとなればよいと私は望んでいる。 
 本書のタイトルは二重の意味を持っている。本書の全体にわたるテーマはよき医療のあらゆる側面に時間が重要だということだ。治すのを学ぶにも、治し方を教えるにも、癒しの技術を行うにも、新しい治療を発見するにも十分な時間が必要だ。マネジドケア時代の現在、これらの活動をする時間は削られており、おそらくそれが現時点で米国医療におきているもっとも憂慮すべき変化かもしれない。それに加えて、医療界も一般の人々も最近の医学教育と医療について深い不安を感じているけれど、これらのジレンマがどのように生まれたかを歴史的に理解することにより難題解決の方法を示すことができる。だから、今こそ医学教育と医療の病んだシステムをそれらがまだ質が高く、そして救済できるうちに直し始めるためにこの知識を使う時なのだ。