12/09/2020

感応外来

 患者の話を聞いて「そうなんですね、私も・・」と自分の経験を伝える医療者もいれば、伝えない医療者もいる。筆者は典型的な後者である。

 患者から見聞きするさまざまな悲惨さや過酷さを、私達が経験したことがなかったからといって、それらに共感できないわけではない。逆に、経験したことがあったからといって「患者の感じた苦しみ」と「私が感じた苦しみ」は同じではない。

 大切なのは、「患者にとってどうであるか」を尋ねたうえで、「それはきっと大変に違いない(経験したことはないけれども)」と、脳や心の同じ部分を光らせることだと思っている。
 
 しかし、こないだちょっと大変な状況の外来で、思わず戒めを解いて「じつは私も・・」とやってしまった。

 すると、自分の身体によい意味の鳥肌が立ち、細胞と細胞のあいだを温かい何かが流れていく感じがした。相手もそうだったかはわからないが、とても前向きに診察を終えることができた。

 41歳で末期がんのため死去したボストンの病院弁護士ケン・シュワルツ氏は、医療者が「ひと」として患者に心を開くことを「医療のルビコン河を渡る」と表現し、それが苦しい闘病生活の中で何よりも有難かったと記している(こちらも参照)。

 何でもかんでも「私も」と相槌を打つのは不適切にしても、効果的に用いるのは、ありかもしれないと思った。



YouとMeで「ゆめ」
こちらから引用)


9/16/2020

天も地も動かせなくても

 急性期病院にいれば必ずついてまわるのが、転院調整だ。しかし医師としては、ご家族とご本人にお話し、転院受け入れをお願いする手紙を書いたら(こちらも参照)、そこから先は調整を待つことになる。

 そのために(名前は違っても)どの病院にもあるであろう「退院支援チーム」は、なんとかしてくれる心強い存在なのであるが、きょうはこの「何とかする」に関連する英語表現について紹介したい。

 それは、"move heaven and earth"である。たいていは仮定法で「~するためなら何でもする(would move heaven and earth to do ...)」と用いられる。

 2017年ディズニー映画『リメンバー・ミー(英題:Coco)』でエルネストがヘクターをだまして毒を盛った杯で乾杯するときに"I would move heaven and earth for you, mi amigo(アミーゴのためなら天も地も動かす)"を思い出される方もいるだろう。

 あるいは、80年代ポップがお好きな方なら、英国歌手リック・アストリーの"Together Forever"(1987年)に出てくる"Don't you know I would move heaven and earth to be together forever with you"を思い出すかもしれない。

 しかし「天も地も」なんて、すこし古臭いというか、芝居がかかっている気がする。それで由来を調べると、旧約聖書で万軍の主が"In a little while I will once more shake the heavens and the earth, the sea and the dry land"と言ったことになっていた(ハガイ書2章7節)。

 筆者はまだ「1日もはやく退院を!」という立場にはないのだが、患者さんや家族のたっての希望がある場合には、「天も地も動かしてなんとかしてください!」と言いたくなるかもしれない。まあ、その際には自分で連絡するだろうが。




映画『天と地と』(1990年)



 

9/09/2020

トトロの教えてくれたこと

  『ふたつよいこと、さてないものよ』と喝破したのは河合隼雄先生(『こころの処方箋』、1992年)だが、同じことを『となりのトトロ』(映画公開は1988年)エンディング・テーマから教わった。

 ほかでもない、曲の最後に繰り返される「トットロ・トットーロ」のことである。下図のように、コードはメジャーからセブンス、セブンスからディミッシュト・セブンス、さらにマイナーへ移り変わる。



 
 最初のFメジャーだけなら、なんの心配もドラマもない。それがセブンスになり「おや?」と変化がうまれる。一つ目(1行目後半)のセブンスは歌詞がCで始まり長調風だが、二つ目(2行目前半)はB♭ではじまり短調を予感させる。

 そしてそこから、一陣の風のようにディミニッシュト・セブンスが吹き込み、Dマイナーへ。二行目はルート音(ベース音)もC→C♯→Dと半音階で進行し、森の気味悪さを暗示するかのようだ。そしてふたたび、1行目のFメジャーにもどる。

 このが繰り返される様子は、筆者にはまるでサインカーブのようにすら思える。また、このマイナーコードがあるからこそ、人生が味わい深くなるのかもしれないと思えてくる。少しの不安、少しの恐怖を乗り越えることによってである。


 同曲歌詞「もしも会えたなら、すてきな幸せがあなたに来るわ」ではないが、子供のときにだけ会えるはずのトトロに、はじめて会えたような気がした。ありがとう、トトロ(と久石譲さん!)。


引用元はこちら


忘れられない一言 68

 一日に何十回もやっている達人が条件のよい血管を刺す時でさえも、「弘法も筆の誤り」ということがある。まして、そこまでの達人でない場合や条件がよくない場合はなおさらだ。

 しかし、患者さんとしてはもちろん失敗してほしくない。それでだろうか、時には刺す前に、「失敗したら、院長呼ぶよ」と言われることもある。

 院長を呼ぼうが呼ぶまいが何とかしなければならないことに変わりはない。しかし、やはりこう言われるとちょっと気が引き締まる。かといって「失敗しても怒りませんから安心してください」と言われたら気が抜けるのかというと、そういうわけでもないのであるが・・。

 じつは筆者も、健康診断で採血される際など「うまく行きますように」とひそかに祈っている。誰を刺すときにも、何を言われても(言われなくても)、刺される相手はそう思っていると自覚して、ベスト・ショットを心がけるよりない。



Pat Betanar ”Hit Me With Your Best Shot”
(引用はこちら




8/24/2020

忘れられない一言 67

 森鷗外といえば、千住に住み橘井堂医院を開業する父を手伝っていたこと(鷗外とは、「鷗の渡しの外」を意味するペンネーム)はよく知られているが、当時の思い出を1911年に『カズイスチカ』として三田文学に発表していたことは、知らなかった。

 読んでみると往診の様子、診察の様子などいずれも興味深いが、もっとも心を打つのは、若い医学士(花房)が、父親(翁)にどうしても及ばないことに気づいた描写だ。花房は言う(以下とカッコ内は青空文庫より引用):

翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫んでいる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。

 これに対して花房は、「何かしたい事、もしくはするはずの事があって、それをせずに病人を見ているという心持」で、「始終何か更にしたい事、するはずの事があるように思っている」という。

 「これをしてしまって、片付けて置いて、それから」・・。しかし、「それからどうするのだか分からない」。「何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう」。女、種々の栄華の夢・・かと思えば、禅の語録や公案にはまったり、とりとめがない。

 そんな花房は、診療所で父の平生をみて「自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事をいい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに」気づいた。

 陽明学者・熊沢蕃山(1619-1691)は「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである」と説いたそうだが、父の態度もまた「有道者の面目に近い」ということがわかり、そしてその時から「にわかに父を尊敬する念を生じた」という。

 筆者もまた、節目ごとに「それで、どうなのか?」という問いが頭をもたげる。その答えが「道を行え」なのかもしれない。道を行先へのルートと考えると、迷うし、最短でなければイライラする。そうではなく、その時その場所で、「道を行う」のだ。


 改めて、自らにそう言い聞かせたい。





 

7/09/2020

忘れられない一言 66

 腎臓内科外来には、健康診断の異常で初診される方も多い。異常とは腎機能(血清クレアチニン値、eGFR)や蛋白尿のことだ。まず外来でできる精査をして、病状が安定していれば、経過観察でよいこともあるし、再診が必要のないこともある。

 しかし、患者さんが持参する結果表には、ほかの異常が記載されていることもある。たとえば、コレステロール値などだ。こうした場合には、そのリスクを説明したうえで、生活改善・投薬治療などを一般内科で受けられることをお伝えする。

 以前、そんな説明をしていたら、患者さんが「サプリを飲みはじめたところなので、次回の健診でも高かったら受診も考えます」と仰った。それじたいは、珍しいことではない。ただ、そのあとのこんな一言が、心に残った。

 コレステロールを下げる薬なんて、ないんだと思ってました。

 これは、まずいと思った。患者さんがではなく、医療者がである。コレステロールほど治療薬の種類が充実して、効果も確立している疾患もないことは、医療者には明らかでも、社会の隅々までは伝わっていないということだ。

 テレビや新聞で「(この製品で)コレステロールを下げる効果が確認されました!」と宣伝された際には、「薬ならもっと下がります」とは宣伝されない(もちろん、細かい字では明記されているはずだが)。

 患者さんにお話したところ、「サプリは高いし、病院の薬でなおせるならそのほうがよいです」と安心された。ただ、せっかく買ったサプリはもったいないので、飲みきってからにすることになった。


(マザーグースより)



 

6/23/2020

医療者側のアドヒアランス

 薬が効かないときに、アドヒアランス(患者さんが処方の通りに飲めているかどうか)を確認するのは、外来診療の基本。しかし入院診療では、あまり問題にならない・・・と思っていた。

 しかし、入院診療といえども完璧ではない。診察するときベッド上に薬が一粒転がっている、などということは時々ある(「お昼はこれを飲んでくださいね」と渡しても、患者さんが落としてしまうのだろう)。

 また、点滴なら安心なわけでもなく、たとえば血管外漏出を起こしていれば、薬は皮下組織に炎症を起こすだけで身体に行き渡らない(精密持続点滴で「押し輸液」がない場合、流量が少ないため数時間経たないと気づかれないこともある)。

 「なにが」「どこから」「どれだけ」行っているのか。それが、ちゃんと入っているのか、入っていないのか。治療している「つもり」にならぬよう、しっかり確認する必要があるなと痛感する。



アドヒアランスを阻むさまざまな要因
(Patient Preference and Adherence誌より、doi:10.2147/PPA.S86719)






 


5/25/2020

忘れられない一言 65

 米国で内科研修医をしていた頃、いまでも師匠と仰ぐ循環器科指導医(こちらも参照)が、回診でこんなことを言った。

Whatever your answer is, the next question is going to be "why?".(君の回答が何であれ、次の質問は「なぜ?」だがね)

 この一言に、「答え自体よりも、それに至る思考過程が大事なんだ!」と、筆者は感銘を受けた。教育回診は、発表者の思考過程を改善させることが主な目的だ。回答者が黙ってウンウン考えていては、改善させることはできない。

 いま日本でどうにか指導的役割を果たしながら、師匠の言葉を裏返して使うことがある。「あなたは、どうしますか?」と質問した時に、「Aにはこのような利点や欠点があり、Bには・・」と巡り回答がなかなか決まらない時だ。

Say your answer first, and tell me why.(先に答えを言って、そのあと理由を述べてください)

 何事においても「AかBか」で悩むには、人生と勤務時間は余りにも短い。「どちらでも」ではダメで、AならA、BならBと決めなければならない。そのためには、①Aでよいリーズナブルな理由を挙げ、②Aがダメならどうするかを説明できれば十分だ。

 そうすれば指導する側も、「Bが好きだから」などというパワーゲームでその回答を崩すことはできなくなる。あるいは、「Bが作法だから」といった理屈を越えた理由でAを覆すなら、それを明確にできる。


 やはり、師匠のいうように、すべては思考過程次第ということか。





 

5/12/2020

橋の大切さ

 患者さんに病状説明するときに「録音していいですか?」と言われて気を悪くする医師はまずいないだろう。専門的な話を一度で理解する(さらに、それを他の家族などに伝える)のは難しい。逆に「録音はしないでください!」といえば、やましいことがあると勘ぐられても仕方ない。

 では、患者さんに「録音していいですか?」と言われずに録音されていたとしたら、どうだろうか。医師は戸惑うだろう。先ほどとは逆に、「相手側にやましいことや悪意があるのではないか?」と勘ぐってしまうかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。

 自らに「日頃から録音されてまずいような診療をしているか?」と問い直してみよう。そして「そんなことはない!」と信じているなら、堂々としていればいい。そもそもカルテだって患者さんのもので、誰にいつ読まれてもよいつもりで書かなければならない。

 診察や病状説明だって、同じことだ。

 さらに、疑心暗鬼を超越すると、相手を理解しようという気持ちが生まれる。「録音していいですか?」と言えない人は、そうさせる何かがあったのかもしれない。相手を信じられないほど、心配で心配でたまらないのかもしれない。怖いのかもしれない。


 人間関係には、そのように橋をかける気持ちが大切だと思う。




5/11/2020

忘れられない一言 65

 静脈路確保を看護師さんが何度も試みて失敗したときに、ドクターが呼ばれることがある。そういう教育を受けて腕に覚えがあるドクターなら、「任せて」とまでは言わないにしても、「よし来た」と静脈路を取ろうとするだろう。無事に取れれば、カッコいい。緊急時にできれば、もっとカッコいい。

 筆者はそういう教育を受けなかったので、「皆さんがやっても無理なら、私にも無理じゃないですかねえ」と言う。謙遜ではなく、本当のことだ。カッコ悪いが、心の底では「診断が何かを考え、静脈路を確保したら何で治療するかを考えるほうが大切」と思っている。

 もちろん静脈路がなくては困るのであるが、それで困ったことはない。だいたいいつでも、経験豊かな看護師さんがいるからだ。こういう方々は、ほんとうにすごい。この間も、看護師さん数名と腕に覚えのあるドクターが失敗した困難症例(筆者はもちろん、試みなかった)で、こともなげに静脈路を確保したER看護師さんがいた。
 
 ありがたく、ヒーローインタビューのようにその人ににどんなことを考えて確保したかを聴くと、

 「無心でした

 という(血管が破れないようには注意したそうだが)。Malcolm Gladwellの"Blink(2005年刊、写真)"もそうだが、経験を積んで積んで積んだ方は、そういうことをおっしゃることが多い。
 
 手技だと分かりやすいが、そういう「眼力」は内科診療にもあるはずだ。静脈路確保は無理でも、そっちのほうで日々腕を磨いていきたいと思った。




4/26/2020

そうだったのか、パスタ

 「イソジン・シュガー・パスタ®」なんて、薬の名前というより、料理の名前みたいだ(写真は、ゆでたマカロニをきな粉と砂糖でまぶして作ったおやつ、筆者撮影)。なぜ、「パスタ」なのか?

 


 少し調べると、軟膏の種類である「パスタ剤」に由来することが分かった(別の商品名である、「ユーパスタ®」も同様)。しかしこれでは同語反復だ。練り練りする軟膏と、パキッとしたパスタがどうつながるのか・・。

 数日煩悶していたが、英Economist誌に載ったパスタ作りの記事(2020年4月18日付)を読み氷解した。記事にはこうある。

パスタは1人当たり約100グラムの粉(小麦粉、ヒヨコ豆粉など)を砂山のように盛って、軽く塩を振ったら中心をくぼませる。そして、粉の半量の液体(ぬるま湯、あるいは粉100グラムあたり卵1個)をくぼみに注ぎ、手でこねて練り練りする。

 そう、パスタとは「粉と液体を練り練りしたもの」という意味。軟膏のパスタは精製白糖とポビドンヨードを練ったもの。そして料理のパスタは、成形して乾燥させる前の状態(dough)からついた名前。

 というのも、前掲記事によればヨーロッパで乾燥パスタを茹でて食べるようになるのは中世にアラブ世界から乾燥技法が伝わってからという(古代エトルリアのホラティウスや古代ローマのキケロの記載によれば、焼いたり揚げたりしていたらしい)。

 なお「ペースト」も「パスタ」と同語源である。「カット・アンド・ペースト(キーボード操作のCtrl+X、Ctrl+V)などというとさらっと聞こえるが、本来は「糊塗する」くらいの語感がある言葉と改めて認識した。

 
 英エコノミスト誌がパスタ作りなどを記事にするのも、パンデミック時代に家でできる愉しみを提案しているからだが、エンターテインメントだけでなく、エンライトメントにもなった。今度、パスタでも打ってみるか。


出典はこちら




 


4/03/2020

じつはとても特別な治療

 以前に紹介したAtul Gawande先生が2017年1月23日付でNew Yorker誌に発表した"Heroism of Incremental Care(地道なケアを称える)"を、読んだ。医療政策・医療費の偏在などに対する政治的なコラムだが、医のアートに触れる内容だった。

 積極的介入・手技によって、多くの病気が「水で火を消すように」治せるようになった。手技は結果が見えやすく、成功して救命すれば、患者や家族だけでなく、医療スタッフや社会全体にまで充実感と感動を与える。

 いっぽう、表題のincremental care(地道なケア)とは、プライマリ・ケア、予防医学、慢性疾患の注意深いフォローなどのことだ。医療資源・予算の配分も少なく、専門性がないと批判されることもある。

 しかし、こうした地道なケアは、慢性的な問題に粘り強く取り組むことで長い目で効果を発揮する。また、信頼した患者が医師に問題を相談しやすくなる。こまめなフォローや、患者にあわせた対応などもしやすくなる。

 地道なケアの重要性じたいは、先生が初めて提唱したことではない。しかし、記事には、彼自身が取材して感じたこと(彼自身も外科医なので、最初は「実際のところ、どうすごいのか?」と疑問があったようだ)が紹介されていた。

 たとえば、何十年も重度の偏頭痛に悩まされた患者。あらゆる医療機関と治療を試したが効果がなく、自殺まで考えた。しかしある頭痛外来にかかり、普通に生活できるまでに回復した。

 彼が受けた治療は何か?

 それは、頭痛日記をつけ、必要時の薬と予防の薬、生活の工夫を愚直なまでに試行錯誤することだった。医師は半信半疑の患者を励ましながら、過度な期待もさせずに、ゆっくり効果がでてきていることを確認しながら、淡々と診療をつづけた。

 数年かかって、患者はふつうに生活できるようになった。

 なんということはないエピソードだが、医師の筆者が読むと、思わず涙がでる。「一般診療なんて誰でもできる」というものでは、ない。患者が投げ出してしまうこともあれば、医師が投げ出してしまうこともあるだろう(そっちのほうが、多いかもしれない)。


 当たり前のことをちゃんとやるのは、意外と難しい。




 

3/05/2020

忘れられない一言 64

 BPPV(良性頭位発作性めまい)の治療、エプリー法(Epley  maneuver)。めまい患者の頭を動かす荒療治なので敬遠されることもあるが、効果はてきめんで、患者に感謝されるし、自分の手で治した実感も得られる。

 こんな治療を初めて考えて実践したのはどんな人だろう、きっと種痘をおこなったジェンナーくらい大変だったのではないか?と思ったら、本当にとても大変だった。その人とは、もちろんJohn Epley先生(1930-2019)だ。


 エプリー先生は耳鼻科医だがとくに耳が専門で(音楽好きだったようだ)、生まれ育ったオレゴンで1965年にクリニックを開業していた。そして、それまで内耳神経切断くらいしか治療のなかったBPPVの治療を自力で研究しつづけた。

 そして、三半規管モデルのチューブに耳石モデルのBB弾をつめて試行錯誤を繰り返し、患者に実践したところ、めまいが消失した。まぐれかと思って他の多数の患者に試したところ、何十年もBPPVに苦しんだ患者も含めて症状が消失した。

 そこでエプリー先生は、1980年にカリフォルニア州アナハイムの学会でこの「リポジショニング」を発表し、患者を連れてきて手技を実演までした。しかし、ペテン師だとおもわれ、嘲笑と怒りしか得られなかった。

 開業クリニックには患者を紹介されなくなり、ある病院では麻酔中の患者に勝手に手技をおこなったせいで別の医師から譴責された(患者のめまいは消失した)。1983年に論文を提出したが、各誌にリジェクトされた。

 それでも彼はめげずに、寸暇を惜しんで研究の実証に尽力した。1992年には初めて論文がアクセプトされた(Otolaryngol Head Neck Surg 1992 107 399、もちろん単独著者だ)が、いぜん周囲は懐疑的で、1996年には正式に州の医師免許剥奪を求めて訴えられた。

 しかし1999年には、New England Journal of MedicineにBPPV治療の第一選択として「エプリーによる方法」が挙げられ(NEJM 1999 341 1590)、以後「エプリー法」として世界中で用いられるようになった。訴えも、2001年に棄却された。


 ジェンナーが種痘をおこなったのは200年以上前のことだが、こちらは同時代といってよいほど最近のこと。エプリー先生と共に研究したドミニク・ヒューズは存命中で、ウェブサイトまである(最初の研究経験は、どういうわけか上智大学らしい)。

 どうしていまだにこんなことが起こるのか?それについて、エプリー先生は生前のインタビューでこのように答えている。脳梗塞後遺症の末に昨年亡くなった先生、感謝とともにご冥福をお祈り申し上げる。


"Physicians learn to just do the routine, to do the accepted things -- don’t go too far out. They’ve got so much to lose if they stick their neck out."
(医師は、現状の治療を繰り返し行うことしか教わらず、そこから先へはほとんど出ない。リスクを冒すには、失うものが多すぎるからだ。)







2/27/2020

再び、サイエンスでアートに触れる喜び

 三平方の定理(Pythagorean theorem)を一般化した、余弦定理(laws of cosines)。




 これを見ているうち、試しに角Aを45度、辺bの長さを1にしてみたくなった。例によって、薬屋さんの説明を聞いているときだ(こちらも参照)。これにより余弦定理はすっきりして、aは以下のように表せる。




 これは、下図のように辺cを伸ばしていったときに、辺aの長さがどのように変化するかを表した式だ。自明ながら、図の黄色線のところでaは最短となる(1/√2)。またcがゼロに近づけばaは1に近づき、cが大きくなるほどaはcとほぼ等しくなることが、図からも確かめられよう。




 逆に言えば、aはゼロにはならない。それは、上記の二次方程式が虚数解を持つからだ。




 でも、逆に言えば、cが虚数解のときには、aはゼロになる。これを可視化できないかと思ったら、検索でわりと簡単に方法がみつかった。ふたつの複素数平面でつくられる空間で、表現すればよいそうだ。

 まず、上記の二次関数は、以下のようなグラフになる。


Googleで作成

 
 そこに、新しく虚数軸を導入する。




 青線グラフの真下には、実数平面と直交し虚数軸に平行な別の平面上に、幻のような赤線のグラフが浮かび上がる。そして赤線グラフ上にあるどの点も、青線グラフとおなじく二次関数を満たす。




 そして、赤のグラフがy=0の複素平面と交わる二点こそが、上記二次方程式の虚数解となる(緑矢印で図示)。


 


 ここまでたどり着いた時、筆者は1年ぶりに「ああ、生きててよかったなあ」と思った(前回はこちら)。世界は、広い。余談だが、1年前知ったヴィエトの公式で知られるヴィエトは、なんと16世紀に余弦定理を独自に発見したらしい。




2/20/2020

Found It

 いまでも心音は作法に従ってA(大動脈弁)→P(肺動脈弁)→T(三尖弁)→M(僧帽弁)の4箇所聴くことにしているが、診察していて心雑音が聞こえたとき、思い出す漫画がある。

 2013年、米国内科学会雑誌にWEB限定で発表された、"Missed It"だ(無料で閲覧できる)。



 
 診察で聴こえた心雑音を無視したために、手術すれば救命できたであろう重度大動脈弁狭窄症の患者を死なせてしまったという、研修医で当直していたころを回想する医師の話だ。
 
 それ以来、聴診で「あれ?」と思ったときには、「聴こえないふり」をしそうになるのを抑えて、もう一度同じ場所に聴診器をあてて、聴きなおす。そして「やっぱりおかしい」と思ったら、心エコーもオーダする。

 すると、時には上行大動脈瘤に伴う大動脈弁閉鎖不全など、命に関わるものが見つかることもある。

 米国医学部で「ヒポクラテスの祈り」と並んで唱えられる「マイモニデスの祈り」には、「見えるものを見えないと思い込んだり、見えないものを見えると思い込んだりすることのないようにしてください」という句がある(全文訳は、筆者訳『医のアート ヒーラーへのアドバイス』も参照)。

 要はそういうことだが、祈りを唱えるより漫画を読むほうが効果が高いかもしれない。聴診しながら「フッ」と画がよぎるし、そこに込められた作者の悔恨(下図)が感情面に訴えかけてくるからだろう。作者に感謝したい。




2/07/2020

仕事終わりの空に

 仕事を終えて病院から出ると、外は何も変わらず、「ああ、院内でいろいろあったけど、一歩出ると平和だなあ」と不思議な気持ちになる。

 さらにこないだは、西の空に金星と三日月がセットで見えた。翌日も見えたが、月はより高い位置にいた。その翌日は、もっと高い位置に。金星と月は、どんどん離れていった。




 そして、その後も夕方の空を見ていると、じつは金星も少しずつ昇っていた!

 金星と地球は、2019年8月14日に外合(太陽を挟んで地球と向かい合う、superior conjunction)し、2020年3月25日に東方最大離角(太陽から最も離れて見える、greatest eastern elongation)となり、6月4日に内合(太陽と地球の間にくる、inferior conjunction)する。



 
 外合から内合までの期間、金星は夕方に見える。地球は365.25日、火星は224.7日でそれぞれ太陽のまわりを公転しており、会合周期は583.9日だ。

 また、お互いインコースとアウトコースを違う速さで運行するため、お互いに追い越したり追い越されたりする。その際、地球から見ると、運行が順行(prograde)→逆行(retrograde)→順行となる。今年の逆行は5月13日から6月25日までで、切り替わる時に運行が止まって見えることを、留(stationary)という。
 
 こういった話を、新聞やテレビでやらないのは、不思議だ。地球に住んでいるという自覚が生まれる(金星が炭酸ガスによる暴走温室効果で過熱していることも、思い出すだろう)し、自分が抱えている問題が小さなことに思える効果もある。

 もっと「太陽系ニュース」みたいなのが身近になればいいのにと思った。

 ともかく、これから数ヶ月、金星の待つ夜空を楽しみに仕事ができそうだ。



1/08/2020

遺伝情報と権利と利害

 英エコノミスト誌に、遺伝情報の開示をめぐっての英独二カ国の訴訟に関する記事が載った(2019年9月28日号)。いずれもハンチントン病(HD)に関するもので、被告は医師または病院だ。

 英国のケースは、未成年女性が、父親をHDと診断した病院を訴えた。当時彼女は妊娠していたが、病気のことは産んだあとに知らされたため、「知る権利」を侵害されたという主張だ。父親を診断した医師は知らせるよう説得したが、父親は彼女が中絶するにちがいないとして断わった(父親は母親を射殺した罪で服役しており、娘とは疎遠だったようだ)。

 ドイツのケースはその逆で、元夫がHDと知らされた元妻が、「知らされない権利」を侵害されたとして(元夫を診療していた)医師を訴えた。医師は(子供のことを心配する)元夫の同意を得て知らせたが、子供はまだ未成年で検査もできないし、元妻はどうしてよいか分からず、反応性うつ病になってしまった。

 これについて、どう考えたらいいのだろうか?まず、わが国の『神経疾患の遺伝子診断ガイドライン』を見てみよう。そこでは、温かみのある「配慮」が書かれている。

  • ハンチントン病の遺伝子診断の施行にあたっては、当該患者の診断と同時にその血縁者の診断にもつながるという遺伝学的特性についての配慮が事前に必要である。
  • 遺伝子診断を行った結果、初めて、当該患者の診断のみならず同時に家族の診断につながるという遺伝学的問題が出現するわけではなく、ハンチントン病を疑った時点から遺伝的な問題についての配慮が必要となる。すなわち、遺伝学的問題も含めて患者および家族に説明し理解が得られるような配慮である。

 もっともだが、こうした配慮が「言うは易く行うは難し」なことも多いだろう。上記訴訟をみても分かるように、家族関係はgoodなときもあれば、badやuglyなときもあるのだ(写真は1966年映画"The good, the bad and the ugly"のクリント・イーストウッド)。




 また、たとえ配慮が実践できたとしても、問題がのこる。「知らせる権利」「知らせない権利」「知る権利」「知らずにいる権利」はどれも大切で、権利Aが権利B・C・D・・に勝る(倫理の世界では「権利Aが他をtrumpする」というようだ)というものではない。

 倫理学者にとっては格好の研究テーマだろうが、現場では権利のかわりに利害(interest)に照らして優先すべきことを決めることが多いようだ(European Journal of Human Genetics  2009 17 711)。

 それで、裁判はどうなったか?

 英国のケースは当初、裁判所が、医師の守秘義務に抵触するとして法廷での審理を受け付けなかった。しかし医師団体であるGeneral Medical Councilが「開示しないことで死や重篤な健康被害がもたらされる」場合は例外的に守秘義務を越権できると判断し、今年11月にロンドン高裁で審理が始まった。

 いっぽうドイツのケースは、一審が原告の訴えを退けたが、二審で覆り、連邦裁判所がふたたび退けて結審している。