10/30/2007

陣頭指揮

 救急外来は、混んでくると「野戦病院」の様相を呈する。野戦病院であれば、つぎつぎに負傷、疾病をもつ兵士が運び込まれ、応急処置を受けた後に戦線に復帰するか、それが不可能な状態が安定しだい後送される。適切かつ迅速にトリアージ(重症度と大まかな方針の決定)をおこなう、また苦しみを取り除くことが求められる。
 しかし、あまりに混んでくると、医療スタッフや設備のキャパシティーを越えてしまう。超重症な患者さんがおれば、その人にかかりきりになることもある。多発外傷などは、その良い例だ。人手を取られた状態でも、臨機応変にスタッフを配置して指揮しなければならない。
 究極的には、全員生き延びさえすればいいのかもしれないが、あなたは軽症ですから待ってください、といって重傷なこともあるし、痛くてたまらない人や吐きつづけて苦しい人が何時間も放置されるのはよくない。家族や本人が対応に不満をもち激怒したり、他の病院に行くといいだすこともある。
 看護師が事前に患者さんを診察してくれるのだが、当院のERはトリアージ専属の看護師がいない。すでに患者さんが一杯でその対応に追われている場合、新しく来た患者さんをみにいけない。さらに、せっかく早めに診察して点滴や内服、検査を計画しても、点滴をする人が多かったりその他のことで忙しければ、そこから1時間待ちになることもある。
 こういう時、さっとできることは看護師に代わり自分でする必要がある。また、注射も点滴も血液検査もそれなりに時間と人を使う医療行為なので、本当に必要かをよく考えねばならない。患者の求めに応じて、というのはいただけない。
 Aさんの診察をして、Bさんに吸入をさせて、Cさんの採血をしたところで、さっき血液検査をした結果がでたDさんに説明をしてCTに連れて行き、帰ってきたらEさんに飲ませた痛み止めが効いたかを確認しに行く、そしてFさんを診察する。
 うまくいけば、これをしながら、Gさん、Hさんを診ている研修医の先生、Iさんを診ている研修医の先生に指示をだして、なんとか多くの患者さんを診療することができる。うまくいかないと、看護師ともめたり、患者ともめたりして、結果診療が停滞して悪循環になる。もめると、正直ちょっと、疲れる。
 でも翌日が完全OFFだと、まだ頑張れる。それが救急のよいところ。
 

解法と解答

 外来をしていると、今まで経験したことのない症状や訴えをどんどん経験する。そこで考えるのが非常によいトレーニングになる。
 考えて分からないことは、相談したり、検査を追加して補うしかないが、幸い当院にはよい指導医とよい設備があるので、それで正しい診断にいたることで、自らにフィードバックして考えと答えを一致させることができる。
 タクシー運転手と胸痛・・・タクシー運転手といえば長時間同じ姿勢で座っている仕事。大抵は喫煙者で、血栓をつくる危険は高い。肺塞栓症(肺に血液を送る重要な血管がつまる)を想起すべきであった。造影CTで、肺血管の先っぽのほうに血栓像を疑う所見があった。
 心房細動のある人の嘔吐と腹痛・・・ただのイレウスではないかもしれない。心臓に血栓ができて全身に飛ぶ危険がある人であり、急性上腸管膜動脈閉塞症(小腸に血液を送る重要な血管がつまる)を想起すべきであった。造影CTで上腸間膜動脈が詰まっているのがわかり、緊急手術となった。小腸の大部分が壊死していた。
 この方は認知症がつよく、症状がはっきりしなかった。高齢者、精神疾患、意識障害のある患者さんで、患者さんの訴えを鵜呑みにしてはいけないというのは鉄則である。

10/27/2007

引継ぎ

 確かに引継ぎは大事だ。しかし、救急外来は「どさくさ」であり病歴も入院医ほど完璧にはとれないし、検査も限られている。大きく方針のかわる、重要な疾患を見逃した(あるいは念頭におかなかった)となればfeedbackを受け改善すべきだが、細かな病歴を取っていないなどと責められても困る。
 それは、入院を受ける「病棟主治医」の仕事である。米国では入院を受け持つ場合に問診と診察に1時間かけるという。入院医は、患者のデータベースをつくらなければならない、知らないことがあってはならない。それも、救急医の得た情報を鵜呑みにせず、オリジナルに聴取するのが筋である。
 引継ぎは、大まかに患者さんのことを知らせるためにするのであり、それがカルテだけで十分なら、相対してしなくてもいい。決して、後医が前医を侮辱するためにするのではない。なんといっても「後医は名医」なのである。

言いがかり

 うすぐもりで初雪の気配もありつつも、陽射しを感じてまだ暖かい朝。夜間帯に受診し入院となった患者のうち、総合内科に入院した方について、寝ぼけまなこで総合内科の担当チームに引き継いだ。引き継ぐ患者さんは、私が直接診ていない方(昨晩22時までの人から引き継いだ)。引き継ぐ相手は、以前から馬の合わない同学年の先生。正直気が重い。直接診ていないので、カルテを見ながら引き継ぐ。
 「この方は、○○で、今朝から・・・」
 「今朝ですか?昨日ではないのですか?」
 日付をまたいで勤務しているので間違えた。今朝からって、こうして話しているいまが今朝だから、そんなわけないと思うのだが。
 「ご家族によれば・・・」
 「ご家族って誰ですか?」
 「・・・」
 「ご家族は今日は来るんですか?」
 カルテに書いていない以上わからない、しかしそれがそんなに重要なことだろうか。誰が家族の代表かなど、基本的な情報は看護師が入院時にデータベースとして取っているから参照すればいい。必要ならその人に電話すればアポイントを取れる。まだ誰になるかも分からない主治医の都合もわからずに「何時に来てください」と前もって確約することもできない。
 だんだん、言いがかりに思えてきた。要するに、直接診ていない人から引継ぎされても意味がない、直接診た先生から引継ぎを受けたい、という怒りを私にぶつけているようだった。救急部と総合内科の取り決めで、総合内科医が夜中も入院を受けるのは大変だからと救急部が朝まで肩代わりしているのである。私に言われてもどうしようもない。
 22時までの勤務の人に翌朝来させることもできないので朝まで勤務の者が引き継ぐことにしているが、これは今に始まったことではない。こうして言いがかりをつける先生も、救急部で働いていた時には同じことをしていたのだが。どうも、理解に苦しむ。
 その先生はこの病院の生え抜き研修医であり、私は新参者であるから下手に悪く言うのも却って周りの不興を買うと思い今までの不愉快な件については黙っていた。しかし今回の件は引継ぎというシステムについての話で、個人間のレベルを超えるので、救急部の先生に相談した。上記の認識で一致したので、少し溜飲が下がった。

10/25/2007

ドクターストップ

 医学的な判断を下すのは、勇気のいることである。医学的な事情を、その他の社会的な事情より優先するとき、とくに勇気がいる。風邪のお母さんと子供の運動会の応援、などがその例だ。怪我と世界選手権出場、胃腸障害と国会審議参加、過労と強制労働(あるいは兵役)などもあるかもしれない。
 風邪と臨床研修、というのもある。研修医のころ、全身倦怠感がひどくて休んだことは2回あった。いずれも、フウフウ言いながら業務をして、こっそり体温を計ると37℃ちょっとでガッカリして、でも仕事にならないので結局代わってもらった。よほどでないと、受診じたいはしなかった。
 いまは、逆の立場になった。立て続けに6回吐いても「すっきりしたので働けます」という研修医を受診させ、診察して帰す。きつさのため仕事にならない、と不安を訴える研修医がいれば、受診できることを伝え、診察した上でその科の上司に相談して早退させる。
 その判断がつくひとが、医者である。医師doctorという語は、docere(指示する)という言葉から来ているというが、それには知識と経験がいる。自分の見立てを信じる勇気がいる。それで、早退が必要です、というときに勇気を感じる。
 このとき、いいなーオレも休みたいなー、などと言ってはいけない。しわ寄せがきたキツさを紛らわすために言うのだろうが、本人は周りに迷惑がかかることをじゅうぶん申し訳なく思っているのであり、むしろ代わりがちゃんといるような仕組みが必要であろう。

早く帰ること

 調べものをしていたら帰りが遅くなった。外はまだ耐えられる寒さだが、今後夜道が凍りついたり、銀世界だったり、吹雪で5m先すら見えなかったりするのかと思うと気が引きしまる。早く帰るか、さもなければ帰れないか、である。凛とした空にオリオン座が輝いていた。帰れば彼女が焼き菓子をつくったのが置いてあった。朝ご飯に食べよう。

10/18/2007

スーパーバイザー

 いまの立場では、後輩の先生達を監督することが求められる。つまり、自分で直接患者さんを診るのではなく、後輩の先生達が聞いた話や診察した結果をもとに、方針をきめたり指示したりする。最初は、自分で診なくていいから楽チンだと思ったが、ぜんぜんそんなことはない。
 患者さんの問題が単純で後輩の先生の診立てでよいときは、「うん、いいんじゃないか」といって居ればよい。でも、実は患者さんの問題が重大であるにもかかわらず、そうでなく聞こえてしまったときに「うん、いいんじゃないか」では済まされない。つねに落としがあると思っていなければならない。最初は、ほぼ全例患者さんを結局一緒に診察するくらいがちょうど良いのであろう。
 救急外来でスムーズに診察するにはtime managementが要求される。具体的には、この患者さんにはこの検査をして、この科の先生に相談して、この注射をして、入院・帰宅する、というコースを想定しつつ、それを把握するために重要な情報を、初療の病歴や診察から得ていくということである。そして、カルテをさっさと書くということである。
 自分は前の病院で先輩方に教わったので、なんとしても後輩に伝えなければならない。まあそんな自分こそ、なんとなくそれがわかるのに丸2年かかった気がするし、いまの後輩の先生のほうがきっと覚えは早いのだろう。

入院拒否

 入院すべき人が入院を拒否することがある。喘息発作で来院し、酸素を吸わなければならない状態の人が、仕事にいくと言い出す。心臓発作で来院し、いまにも心臓の血管がつまりそうな人が、家をちらかしたままで出て来たからいますぐ入院は無理、3日後なら大丈夫、と言い出す。

 緊急入院させるのは、いったん家に帰って入院の準備をすることすら危険な状態だからである。心電図や酸素飽和度をモニターするのは、いつ急に心臓や呼吸の状態が悪くなるかも知れないからである。そうでなければ、いったん帰って翌朝来てもらうことも理論上は可能である。ただ、入院して治療を早く始めるに越したことはない、とか、いったん帰るのも手間だ、などの理由で即日入院になることも多い。

 緊急入院は、患者さんにとって青天の霹靂である場合が多い。だから、「急変して命を落とすことも十分ありえます」とか、「仕事なら雇い主に事情を説明します」とか、「家のことは他の人に任せることができます」と提案しても、たいてい押し問答になる。まずは、「急に言われてびっくりするのもわかります」とか、「いろいろと事情がおありなんですね」と相手の大変な気持ちを受け止めることが重要なようだ。

 医者は強制できない。精神疾患で自傷他害のおそれがあると精神科医が認定した場合など、特殊な条件下では本人の同意なしに入院させることも可能だが、これはもう大変な修羅場になる。そんなわけで、理を説き情にうったえ、家族などにも事情を話す。そのうえで、入院してくれる人もいるし、やっぱり帰る人もいる。帰る場合も、じゃあ勝手にしろ、などと言ってはいけない。

 We are here to help.(いつでも来てください)

 ということである。私達はここで助けるため待っていますと。24時間、365日。

10/15/2007

コード

 米国医学雑誌で反響を呼んでいる"code"という記事がある。コードとは、こういうときにはこう行動する、という約束事であり、武士道なども一種のcode(規範)であるが、ここでは患者さんが入院中に心肺停止状態になったときはどうするか、ということである。心肺蘇生法を行うのか、行わないのか。重症患者さんや、末期患者さんではcode statusが重要であり、本人の意思と家族の意思を前もって確認しておかなければならない。
 とにかく何でもやってください、というのがfull codeである。多くの病院では、発見者が全館放送をかける。何をしていても、医師は走って駆けつけなければならない。集まった人から、リーダーを決めて、組織的に蘇生が始まる。止まった心臓を強心剤で動かそうとし、外から胸壁を押して代わりに動かし、心電図モニターをつけて不整脈波形がみられれば電気ショックをかける。呼吸が止まっているので、口から気管に管を通して酸素を送り込む。流れていない血管に点滴ルートをとり、心臓マッサージにあわせて触れる脈を頼りに針を刺し採血する。
 こうやって蘇生できることがあるのだから、すばらしいことだ。先月に担当した患者さんも、病院で運ばれた直後と、入院病棟にあがった直後に2回も心臓が止まったのに、蘇生し、さらに最高なことに、脳機能が保たれた。そのうち家に帰るだろう。そのほかのケースでは、心臓だけ動いて植物状態になるか、心臓が少し動いても数時間から数日で亡くなる。そして、おおくの、ほとんどのケースでは、心拍は戻らない。
 前置きが長くなったが、この記事を書いた先生が言うのは、うまく行かなかった場合に、多くの医師が、「蘇生がうまく行かなかった」と受けとめるばかりで、「患者さんが亡くなった」という重要な場面であることから目をそむけているのではないか、ということである。彼女の研修医時代の経験では、リーダーが
 "Code is called."
 (蘇生を中止する)
 と言ったとたん、医師たちが何事もなかったかのように立ち去り、振り返ると患者さんがまるで打ち捨てられたかのように横たわっていたという。みんな何も感じていないわけではないだろうが、もっとこういった場面に感じることや、かけるべき言葉などについてオープンに話し合うべきではないか、と彼女はいう。
 家族には事前に説明をしてあることもあるし、到着してから改めて死亡確認をする。そのときには患者さんはきれいにされている。でも、蘇生を中止したときにも、なにか患者さんに敬意を示す儀式があってもいいと思った。法律上、医師が死亡確認した時間が死亡時刻になるので、家族に「○時○分、ご臨終です」と言った時間を死亡時刻にすることが多い。かえって、蘇生を中止したときにそこにいるみんなの前で「○時○分、ご臨終です」とやって黙祷したほうがいい気もする。

priceless

 救急外来は、とくに夜間外来は、日中と比べて診療報酬が高く設定されている。準夜(夕方から夜まで)と深夜(夜から朝まで)でも違うが、深夜など診察を受けただけで2000円払わなければならない。CT検査は、造影剤だけで3000円かかる。どれも、自己負担額である。私が重篤な疾患を見逃してはならない、という一心で追加していた検査であるが、それらをすることで患者さんはだいたい1万円-2万円支払って帰る。
 命はpricelessで、実際に「まさか」と思うような病気が検査でわかることがある。見逃していれば翌朝を待たずに心肺停止状態で救急車で運ばれてきていたであろうこともたくさんある。ただし、医療費を自覚して診療できない医師は、現実感覚に乏しいと言われて仕方ない。社会が期待しているのは、話と診察、それに印象で検査を最小限にできる、十分な経験と知識をもった医師だろうか。あるいは、誰でもどこでも安価にだいたいどんな検査でも受けられる「安心」医療体制だろうか。

10/14/2007

ほうほう

 ほうほう、というのが私の口癖らしい。要は相槌なのだが、自分の価値観を挟まずに発言を受けとめるのに使う。「そうですか」でも「そうだったんですね」でも「なるほど」でも良いのだが、相手の会話を止めないように挿入するには、ほうほう、が一番よい印象である。言われたほうがどう思っているのかも気になるので、今度聞いてみようと思う。主に仕事でつかっているはずだったが、日常的にも頻用しているらしく、私生活では他の言葉も使いたい。

プランAとプランB

 渡米のプロセスが、間に合わない可能性がでてきた。どうなることか。水面下に、うまく行かなかった時のプランBを用意しなければならない。どんどん冷える気候、初雪も間近の憂鬱なこのときに、struggleしながらERのハードスケジュールで働いている。決まっていない状態は、ストレスなものである。仕方ない、やれるとこまでやろう。

10/11/2007

風呂あがり

 夜勤続きの毎日。朝、仕事が終わってまず風呂に入ると、疲れがとれる。汚れ(ウイルスなど)も落ちていると思う。労働の後の風呂は、気持ちがいい。炭鉱で働いていた坑夫・婦たちもヤマから上がると風呂に入ったという。以前いった炭坑記念館に、坑婦たちが半裸で湯に入り身体を流している大きな壁画が飾られていた。
 それにしても、毎日たくさんの患者さんを診ている。ERに一晩で100人来たとする。患者さんたちの住所で多い、近隣地域の総人口は、おそらく数十万人であるから、数千人に一人が毎日なにかの病気になり病院を訪れている計算。実際には、もっと多くの人が病院に行くまででもない状態の病気になっているのだろう。
 そんなことを考えながら、風呂あがりに眠気がきて、昼過ぎまで寝るのである。

10/02/2007

咳の季節

 咳の患者さんがたくさん来た。咳は本人にとっても苦しいし、周りにいる人にも苦しいので何とかしてあげたい。だが、肺炎などでなければ、病気の原因を治すことが難しいので、原因をいろいろ調べても結局治療は変わらないこともある。
 あまりにひどい咳であれば、百日咳に大人になって罹っている場合もあるので検査を提出することもあるが、後から判っても治療によって咳の期間を短くすることはできない。
 急性期の風邪・上気道炎の時期を過ぎたと思われるのに、いつまでも咳が続くときには、咳が主症状になるタイプの喘息や、鼻みずがノドに流れ込んでいることや、胃液ののどへの逆流などを疑うが、これも問診で判別するのはなかなか難しい。結局、一つずつ治療していって効果を見る場合が多い。
 ずっと患者さんを診られればよいが、現在のシフトでは、日中の内科外来の日と、救急外来で救急車の患者さんを見ている日の両方があり、なかなか再来の日程を組めないこともある。