5/04/2015

仏僧と医師

 仏僧が修行道場に行って修業を終えて帰ってきたらそれで修行が終るわけではないことと、医師がレジデンシーなりフェローシップなりを終えたらそれで医師としての成長が終るわけではないことは何となく似ている。仏僧が日々の勤行をおこない、弟子を育て、衆生を慈しみ仏性が顕れるよう祈るように、専門医をとった医師も日々研鑽を積み、若い医師を育て、患者さんの苦しみを自分の持てる全てを使って取り除くことが求められる。

 そのためには、自分の心が明るくかつ落ち着いて、モチベーションで充ちている必要がある。その心のお手入れは、ある人にとっては初心に帰ることであるかもしれないし、学会に行ったり論文を読むことかもしれないし、若い医師の燃えるような学びの情熱を受け取ることかもしれないし、患者さんに感謝されることかもしれない。そんななか名越康文著『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)を読み進め、真言密教の『仏前勤行次第』のなかにある開経偈を見つけた。

 無上甚深微妙の法は
 (この上なく深く普通の人が知ることができないような素晴らしい智恵は)
 百千万劫にも遭い遇うことかたし
 (宇宙が始まって終る時間の百倍千倍かかっても出会うことが難しいのに)
 われいま見聞し受持することを得たり
 (私はいまそれを見聞きし受けとめ得る機会を得たのであるから)
 願わくは如来の真実義を解してたてまつらん
 (願わくはどうかその智恵を理解することができますように)

 臨床の「なんかおかしい」という観察眼というか勘というか、そういう能力は経験を積んでいればこそ身につき磨かれていくものだ。フェローシップで無料でいくらでも手に入る論文と専門書を消防車のホースから水を飲むようにごくごくと読んで得た腎臓学の知識の集積も、毎日毎日何十人のコンサルトを受けて得た経験も、ふつうに働いているだけでは身につかない特別なもので自分の基礎をつくったが、時間がたてば古くなる。

 だから日々精進しなければならないのだが、この開経偈に触れて「自分がしてきた経験と得てきた知識は、宇宙が始まって終る時間の百倍千倍かかっても出会うことが難しいものだったのだから、その道をあきらめてはいけない、毎日少しずつでも前に進む努力を惜しまず、それを持続的に可能にする心の持ちようや生活習慣を身につけなければいけない」と気づかされた。私はなんとラッキーな人間なのだろうとも。

 そしてそれがひいては周囲の同僚、患者さん、社会、世界によい影響を及ぼすと信じたい。前掲書によればこれを(大乗)仏教では「方便」というそうだ。『大日経』の「住心品」には、

 菩提心を因となし、
 (自分の未熟さを知り成長しようと固く誓う心を全ての出発点とし)
 大悲を根となし、
 (ひとの成長を願い敬意を持って苦しみに共感する態度を土台とし)
 方便を究竟となす
 (社会の中で日常において相手に親切にしたり貢献したりすることが究極の境地である)

 とある。私が「方便」と言う言葉に抱いていたイメージとだいぶん違う。方便は相手を上から優越的に導くのではなく、相手の無限の可能性を信じるようにやるそうだ。またやったあと自分の心が輝き爽やかになるかどうかを指標にやればいいそうだ。そして一番重要なポイントとなるのは、実は「共に戯れる」ようにやることだとまでいうからラディカルだ。良い方便というのは相手と遊びながらインタラクションすることで、相手の自発性が自然に伸びて成長していくようなものだという。

 これは体育会系で上意下達的な医療文化では根付くのにまだまだ時間がかかる考え方だろう。しかし例えば私が帰国してから上の先生にも下の先生にも関係なく丁寧語で話すのは、従来の文化に対するささやかな抵抗だし(私は上の先生が下の先生に、あるいはドクターがナースに「おう、おう(aとoの間の発音)」と体育会系の相槌を打つのが正直いって嫌いである)、相手の考えを聞きそれを発展させるような対話式の教育を心がけたり、相手の自発的な質問を受けそれに対する答えを提供してあげるようなスタイルを重視しているのも然りだ。