私は東京出身だが、庭に大きな樹がある家で育った。長野から作家を目指して上京してきた曽祖父が植えたそうだ。それに東京といっても道路には街路樹があるし近くの大学にも並木道があるし樹々がたくさん生えた公園もある。それでも、いままで物言わぬ樹は私にとっては鉄柱と同じだった。春に芽が開き五月に新緑をだし秋に紅葉しながらダイナミックに生きているのを日々みていたにもかかわらず、である。人間なんかよりずっと長く(うちの樹の種を植えた曽祖父も祖父ももう他界した)生きてきたにもかかわらず。
名越康文著『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)は、仏教の行を実践することで自ら心を落ち着かせ因縁を断ち切る方法を紹介している本だ。「行」というから座禅したり滝に打たれたりするのかと思ったら、日常のささいなこと、たとえば姿勢を正して息をゆっくり吐ききるだけでもいいというので気が楽だ。この本によれば、一時的な心の乱れを整える方法のほかに、平生から「心の基準点」を高く保っておく方法があるという。そして後者の行のひとつに「大きな樹と呼吸を合わせる」というのがあった。
幹の太い、生命力に溢れた樹を見つけておき、毎朝早起きして両手を樹の幹にあて、目をつぶって深く深呼吸する。このとき自分の呼吸と「樹の幹の中にある生命の流れ」を同調させることで、自分のなかにある澱みを大きな樹によって洗い流してもらうことをイメージするのだという。心の疲れがたまっている人はなかなか自力では心の落ち着きを取り戻せないので、これをやると樹の大きなエネルギーを借りることができる。これを読んで、出勤の途中に出会う樹々を初めて「大きなエネルギーをもったいのち」と発見した。
そして、勇気を出して幹に触ってみた。通勤の人の流れのなか立ち止まるだけでも、ちょっと落ち着く。川辺に立ってざーっという水の流れが聞こえるかのようだ。人目が多少気になるが、そこは他人のことに立ち入らない個人の集合都市東京だから「何してるんですか」と声を掛けてくる人などいるはずもなく、心配はいらない(もし見かけても、そっとしておいて欲しい)。樹こそつよい生命体。一人で立ち文句も言わず、深く根を生やし、乾燥にも雨にも耐え、人間なんかよりずっとながく生きる。なんだか尊敬の念が湧いてきた。