12/04/2019

カルテと俳句

If primary care were an art form, it would be an epic poem composed of self-contained haikus.
(もしプライマリケアをアートに例えるなら、内容の詰まった俳句を組み合わせてできた叙事詩でしょう)

 米国内科学会ブログに、上記の言葉をふくむエッセイ、"A Good Note is Like a Haiku(よいカルテは俳句のよう)"を見つけ、はっとした。

 余計なものをそぎ落として骨子だけを短時間で簡潔にまとめたカルテは、読みやすい。たとえば、入院中のプログレス・ノートなら、

腰痛なくなり 食事摂れ
36.0C 120/60mmHg 
腎盂腎炎 
抗菌薬Day3/X、反応あり
尿培養フォロー X病日にも退院

のような数行でも、SOAPフォーマットに従っているし、診断名も明記されている。もう少し思考過程と方針が複雑な場合も、

HFrEF 
 後壁に運動異常あるも慢性か
(心筋酵素逸脱、心電図変化なし)
 非代償性心不全に対して利尿薬開始 
  酸素OFFめざし X病日に胸部X線フォロー
 冠動脈造影は待機的に
  循環器内科Drご相談ずみ
  ご本人、ご家族に上記方針を説明し了承得た

 のように箇条書きで流れをつけて書けばよい。インデント(字下げ)によりグループ化・序列づけするのもよいだろう。ちなみに、もしこれを一段落で叙述的に書くと、

 HFrEFについては、後壁に壁運動異常がみられ、冠動脈疾患が背景にある可能性はあるが、現時点で心筋酵素逸脱や心電図変化がないことなどから、急性冠症候群の存在は否定的と思われる。よって、まずは非代償性心不全に対して利尿薬を開始して、低酸素血症の改善をはかることにした。肺うっ血の評価として、X日に胸部X線をフォローする予定である。そのうえで、冠動脈評価は待機的に行うこととし、循環器内科Drにもその旨お伝えずみである。また、これらの方針については、ご本人とご家族にも説明差し上げ了承いただいた。

 となる。どちらがよいか一概にはいえないが、「俳句スタイル」のほうが書く側も読む側も時間を短縮できることは確かだろう。


 
こちらは『医のアート

10/19/2019

忘れられない一言 63

 ロサンゼルス地下鉄、パープル・ラインのWilshire-Normandie駅でプロ並みにプッチーニを歌う、路上生活者のEmily Zamourkaさんが話題になっている(詳しい解説はこちらも参照)。

 ツイートしたLAPD警察官の、“4 million people call LA home. 4 million stories. 4 million voices ... sometimes you just have to stop and listen to one, to hear something beautiful”という一言にも、ほろりとさせるものがある。

 筆者はこのニュースに触れて、10年前の『The Soloist』という映画を思い出した。映画の舞台もまたロサンゼルスで、主人公で実在人物のNathaniel Ayersさん(Jamie Foxxが演じる)もまた、路上生活者のミュージシャンだったからだ。

 ただし彼は、音楽の才能を持ちながらジュリアード音楽院時代に統合失調症を発症し、以後LAでホームレスをしながら弦の切れたバイオリンを引き続けていた。たまたま出会ったLA TimesのコラムニストSteve Lopezさん(Robert Downey Jrが演じる)が、彼のことを記事にしつつ交流してゆくのが映画の本筋だ。

 SteveはNathanielを助けよう、社会的状態を改善しよう、才能にもう一度チャンスを与えよう、病気を治療しよう、と関わっていく。けれども、最終的にはそういうことではなくて、ふたりは友達になった。それが助けになったとも言えるが、同時にSteveの側も、信じるものを信じ続けることや、大事なものを手放さないことなどを学ぶことができた。

 Emilyさんの場合も、彼女を支援するクラウド・ファンディングなどが盛り上がっているが、この先どうなるか注目したい。

 なお筆者は、映画公開時に米国で研修医をしていたので、当時のことも思い出した。

 その日は4月ながら最高気温が80F(約27C)を越え、5時半に仕事が終わったあと、何をしようかなと思案しながら帰宅した。朝に着てきたダウンジャケットも脱ぎ、クルマの窓も全開にして気分爽快だった。

 帰宅すると同期からお出かけに誘うメールがあり、ふたたびクルマに乗ってバーの屋外テラスで歓談した。同期と彼のgirlfriendがいて、仕事や生活、彼らの結婚準備のことなど話した。

 そのあと20時頃に、街を一望できる見晴らしの良い丘まで行こうという話になり、彼らをクルマに乗せた。夕焼け、高層ビル群とその灯り、川面に映るそれらの光が彩る美しい風景であった。

 展望台では、椅子、テーブル、ワイングラスなどを持参して簡単な食事をしている若い人たちもいて、ナイスアイデアと思った。Prom(高校などの卒業ダンスパーティ)の前か後らしく、みなドレスで着飾っていた。

 そのあと、翌日みんな休みだった(遅くなっても大丈夫)ので、映画館に行った。上映開始の22時までのあいだは、Cheesecake Factoryでチーズケーキを食べた。こぶし大のホイップクリームが二塊もついてきて、でもおいしかった(一塊は残した)。

 彼らは『Obsessed』を観るというが、筆者はホラーには興味がなかった。そこで、別々に観ることにしたのが、『The Soloist』だったのだ。筆者はそれまで一人で字幕なしで映画館で映画を観たことがなく、理解できるか不安だったことを覚えている。

 しかし、話の筋はわかったし、オリジナル言語で観ることの魅力も経験できた。たとえば、Nathanielの発病・家出以来ほぼ生き別れのお姉さんが、数十年ぶりに彼と再会するシーンで、Nathanielはこんな短いセリフをいう:

"We had some life, didn't we?"

 聞いたお姉さんは、涙。この、積み木のようなシンプルな一文に、どうしてこんなに気持ちが表れるのだろう?感動もしたし、これなら自分にもできるかもしれないと勇気づけられもした。


 あれから10年。We had some life, didn't we?






9/25/2019

忘れられない一言 62

 入院診療には、だいたい「この病気ならこういう治療をして、これくらいで退院」という目安がある。医療費支払いもそれに基づいているし、仕事もクリニカル・パスのような「入院オーダーセット」で効率的に行われる。

 それでも、予想外のことは起こる。

 外来診療も同様で、「どうしましたか?」「そうですか」「検査はこうでした」「治療はこうしましょう」「では次お会いするまでお元気で」と、とんとん拍子に行けばよいが、そうも行かない。

 予想外の結果にも対応しなければならないし、予約外の患者さんがやってくることもある。

 ・・・当たり前のことだと思うだろう。

 しかしそんな時(とくに、疲れていたり空腹だったりすると)、「秩序が乱れた」という怒りを感じることもあるから、注意しなければならない。

 エーリッヒ・フロムは『人生と愛(紀伊国屋書店刊、1986年)』のなかで「制服を着たサディスト」の特徴として、「人間を物と見なす」ことと、「度を過ぎた秩序愛」を挙げ、以下のように述べている(太字は筆者)。

秩序は唯一の確かなものであり、人間が支配できる唯一のものである。度を過ぎた秩序意識を持っている人間は、通常生命におそれを抱いている。生命は秩序をもたないからである。生命は自発的であり、驚きをもたらすからである。

 映画化もされたスタンフォード監獄実験の責任者、フィリップ・ジンバルドーなら、「制服を着るからサディストになる」というだろう。エーリッヒ・フロムは、サディスティックかそうでないかは性格の違いだという。現在の脳科学者なら、扁桃体の発達程度で説明するかもしれない。

 いずれにせよ、大事なのは余裕と、(余裕がないと秩序が乱れたと感じてしまう、という)自覚である。

 いつだったか、鉄道関係に長く勤めたある人は、筆者にこう言った。
 
医療はね、常に事故対応なんですよ。

 この言葉を、忘れないようにしようと改めて思った。





9/19/2019

局麻するときは

 恥ずかしながら今まで、皮膚を局所麻酔するとき、「自分は麻酔によって痛みをとるという良いことをしているのであり、針を刺す痛みと麻酔の液が広がる痛みくらいは、仕方ない(我慢してください)」と思いがちだった。

 しかし、隣人愛の精神からも、ヒポクラテスの"do no harm"の精神からも、こうした痛みを最小限にする努力を怠ってはならない。そんなわけで、筆者も師匠から「神経終末が通っている層に針をいれろ」「液の注入はゆっくりと」「針を複数挿入するときにはすでに麻酔された個所から」などの教えを受けた。

 さらに、皮膚科や形成外科の雑誌には、「リドカインのpHを7に近く」「液をあたためる」「刺入角度を垂直に」などの研究報告がたくさんあるようだ(Plast Reconstr Surg 2013 132 675など)。

 最近は、とくに「ゆっくりと」の効果を実感している。同様に、抜糸する際にも、糸を「ゆっくりと」引き抜いたほうが痛みが少ないようだ。時間を掛けるべきときには、時間をかけようということか。










9/06/2019

忘れられない一言 61

 医者になって10年以上経つのに、いまだに院内PHSは身体の一部にならない。本能的に(こいつさえいなければ)と思っているのかもしれない。医局の机に置き忘れたことに気づいて取りに行くと、たいていはランプが赤く点滅していて、着信記録が何件もある。

 あまりたくさん着信があると、「本当に必要なものはまたかかってくるだろう」と放置することもある。実際そういう案件は、かかってくる。それに対して、私以外の医師に連絡がついて処理された案件は、かかってこない。

 もちろんカバーしてくれた医師には感謝するが、電話をくれた相手にも「お電話くださったのに済みません」というフォローが必要だ。無視したことになり、心象を悪くしたかもしれない。じっさい、こうした事例があまり重なれば、信用は落ちる。

 先日もそんなことがあったが、スタッフとやりとりした後の一言は、心に響いた。


「(いつも必要なときに電話にでてくれるあなたを信じて、他の誰かではなくあなたに対処して欲しくて電話したのに、でてくれないなんて・・)ふられちゃった

 
 カッコ内は筆者の妄想だ。しかし、本当に信用を落としていたらこうは言われないだろう。訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』によれば、患者は医師への信頼を日々増したり減らしたりして、その残高を査定しているという(5章参照)。医療スタッフもまた同様ということだ。

 同時に、頼られ必要とされるということが、(機械の部品や社会の歯車のように扱われることを嫌う)医師にとっていかに価値ある財産かということも、あらためて実感した。何のために働いているのかと迷ったときには、この言葉を忘れないようにしよう(写真は、小野正利による1992年のヒットシングル、"You're the Only...")。







8/21/2019

情けは人のためならず

 ジェネリックが登場してからオリジナルを売る製薬会社も大変だが、米国ではびっくりするような仕組みが誕生していた。情報源はもちろん、2019年8月17日付の英エコノミスト誌だ。タイトルの"Generous to a fault"とは「寛大すぎるにもほどがある」の意味だが、ここではfaultを文字通りの「過ち」と掛けている。

 「寛大」とあるのは、それがチャリティーを使った仕組みだからだ。

 米国は薬の自己負担額(co-payment、略してコーペイと呼ばれる)が保険によって決まっているが、だいたい10%くらいがコーペイとなる。だから、たとえばジェネリックでない薬Xが月150ドルするなら、コーペイは月15ドル。いっぽうXと同一成分のジェネリック薬Yの価格が月10ドルだったとすれば、10%なら月1ドル(だが、多くの保険ではジェネリックに自己負担が発生しない)。なので、患者さんとしては当然、月15ドル払うよりもジェネリックのほうがよいと考える。

 しかしここで、チャリティー財団がやってきて「お薬Xの金銭的負担に悩む患者様のために、私達が自己負担額を負担します」という。そうすれば患者によっては、「おなじタダならオリジナルのほうがいいか」とXを選択するかもしれない。

 こういった財団は、薬代が払えない患者に治療選択肢を提供してくれる、ありがたい存在である。ただ問題なのは、こうした財団を製薬会社が相次いで設立していることだ。現在、チャリティー財団トップ20のうち、じつに10が製薬会社によるものだ。 

 どうして製薬会社がチャリティー財団を設立するのかというと、患者にオリジナル薬を選択させる「投資」によって、売り上げという十分な「リターン」を得ることができるからだ。財団によっては、自社薬の自己負担のみを肩代わりするものも多い。
 
 2016年の統計では、こうした製薬会社立の財団が年間7400億ドル分の自己負担を肩代わりした。自己負担が10%だとすれば、製薬会社はその10倍、7兆4000億ドル分の売り上げを手にしたことになる。

 さらに、こうした「投資」は「チャリティー」であるから、課税控除が受けられるのだ!米国の法律はチャリティーに寛容なため、「恵まれない・病気の者の益になる」チャリティーではかけた金額の最大2倍まで課税控除できるという。

 この仕組みはさすがに問題化したため、現在日系を含むさまざまな製薬会社が米国証券取引委員会(Security and Exchange Commission)の調査を受けている。またカリフォルニア州は2017年、上記のように同じ薬効で安価なジェネリックがある場合に財団が自己負担の肩代わりできなくする法律を通した。しかし、こんなに頭のよい仕組みを考えるのだから、その対策も考えてあるに違いない。


 薬価と自己負担額をどう決めるか。国、製薬会社、患者にそれぞれの言い分があって、倫理レベルの問題だ。最近わが国でも「患者自己負担のない高額な薬」が増えているので、処方の各方面への影響に対しても、盲目ではいけない。その警鐘となる記事だった。






6年ぶりの再会

 6年前、カッコいいが悲しい文章に出会った。タイトルを"Indian Summer(小春日和)"という(Ann Int Med 2013 158 355、DOI:10.7326/0003-4819-158-5-201303050-00012)、例のOn Being a Doctorからだ。話は、Ohioで開業するprimary care physicianの著者が、医学部(大学院)進学コースの学部生達に講演を頼まれクルマで向かうところから始まる。

 「総合内科医とは?」「トレーニングはどんなものか?」「今の仕事はどんなものか?」という講演内容リクエストの準備をしながら、彼女には数週間前にあったadministratorsとの会談が頭を離れない。そこで医師たちは「外来の新患診察時間を一人あたり20分にしてください」と告げられたのだ。

 日本では驚くことでもないだろうが、米国では伝統的に新患なら60分、問診と診察をじっくりする。彼女達にとっては医療と教育の質に関わる提案だ。しかし経営努力のため避けられない。やめようかとも思ったが、他に行っても経営難なのは同じだ…。

 駐車場につくとラジオからAmericaの"A Horse With No Name"(1972年)が流れ、雨は去り、砂漠は海になり、乗っていた名前のない馬を手放す…、と歌う。何かを解き放つように目を閉じ、彼女はクルマの中でしばらく待った。そして講堂にいくと、希望と不安に満ちた医学部志望の学生達…どれも20才だった頃の自分だ。

 そんな彼らを前にいまの状況を伝えるなんて、著者にはできなかった。用意したメモをしまい、「お金じゃない、恵まれず貧しい人達を癒せ、患者さんに真の敬意を持って接しろ」と訴えた。症例を挙げて、研修医達の思考過程をいかに鍛えるか紹介した。「シャーロックホームズね」というと彼らは笑い、彼女も一緒に笑った。

 これが、彼女にできる最後のプロフェッショナリズムだった。講演後に病院で彼女の仕事を見学したいと希望する学生に、「もちろん、でも私のパートナーに付いてもらわなきゃ、私は辞めるから」という言葉が自然に出た。彼女には、愛するprofessionの尊厳と伝統を保つために残された道は、それしかなかったのだという。


 刹那的でちょっと極端な話ではある。20分といわれても、時間がかかるものはかかるのだから、「そうですか」と答えて自分のペースで診ればいい気もする。外来スケジュールが押すのはどの国でも一緒だ。真面目な人なのかもしれない…と思って、彼女のその後を案じていた。 


 すると、6年後に彼女がまた投稿した(Ann Intern Med 2019 171 295、DOI:10.7326/M18-2911)。


 投稿のタイトルは"A Burnout's Rehab(燃え尽きた者のリハビリ)"だ。燃え尽きたあと彼女は、地元のカレッジでライティングの授業をとったり、子供の送り迎えをしたりといった充電期間を数年過ごした。そして、医師免許を更新しますかという通知が州から届いたのを機に、医師に戻った。

 戻った先は、時間をかけて診察でき、経営的な突き上げの少ない、教会の地下で行う無料クリニックだった。そこで人の力になったり話を聞いたりして(要するに医師の仕事をして)エネルギーをもらい、いまでもそこで診療して絆を築いているようだ。


 とにかく、元気そうでよかった。まあ人生、生きてりゃ、どうにかなるものだから(写真は、1995年のMy Little Loverによる"hello, again ~昔からある場所~"より)。





7/26/2019

Comfortと「なぐさめ」

 訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』刊行から3ヶ月、お手に取った方の中には読了された方もいらっしゃるかもしれない。そして、1章にあるこのくだりに注目された方もおられるかもしれない。

「私がなろうと望み、なれなかったものが、私を慰める」

 これは、下の英文に相当する。

"That which I have strived to be, and am not, comforts me."

 これは英国詩人ロバート・ブラウニングの詩、『ラビ・ベン・エズラ』にでてくる一節を意識したものだ(オスラー卿も講演で引用している)。

What I aspired to be,
And was not, comforts me:

 有名な詩なので当然訳されていて、comfortは「慰める」とするのが通例だ。それで筆者のその訳も合わせたのだが、どうしようもない違和感を感じ、出版ギリギリまで別の訳にするか迷った。「力づける」「悔いはない」「だから頑張れる」のように、ポジティブな言葉にしたかったのだ。
 
 しかしその後、内村鑑三『ヨブ記講義(講義は1920年に行われ、現在は岩波文庫・青空文庫に所収)』を読み、彼の説明に納得した。少し長いが、ヨブ記16章1-5節についての解説から引用する(フリガナは除いてある)。 

◯そもそも「慰め」とは何を指すか。『言海』を見るに、邦語の「なぐさめ」はなぐより出た語であって(風がなぐ(凪)の類)、「物思いを晴らして暫し楽む」を意味するという。他の事に紛らして暫し鬱を忘れるというのが、東洋思想の「慰め」である。されば東洋人はあるいは風月に親しみ、あるいは詩歌管絃の楽しみに従いて、人生の憂苦をその時だけ忘れるを以って「慰め」と思っている。従ってなお低級なる「慰め」の道も起り得るのである。正面より人生の痛苦と相対して堂々の戦をなさんとせず、これを逃避して他の娯楽を以てわが鬱を慰めると言うのはまことに浅い、弱い、退嬰的な態度である。聖書的の「慰め」は決してこの種のものではないのである。

◯英語において「慰め」を comfort という、勿論もちろん慰めと訳しては甚はなはだ不充分である。 fort は「力」の意である故、 comfort は「力を共にする、力を分つ」を意味するのである。そもそも人が苦悩するのは、患難災禍に当りて力が足らざるためである。その時他より力を供することがすなわち comfort である。故に真の力を供するのが真の comfort である。しからざるものは comfort ではない。殊に天父より、主イエスよりこの力を供せられるのが、キリスト教的の「慰め」である。かくの如き力を供給する慰めが真の慰めである。ヨブの三友の慰めの如きは、むしろ力を奪うところの慰めであったのである。

 いかがであろうか。従軍慰安婦の訳であるcomfort womenがおかしな英語になるように(クオーテーション・マークをつけて表記される)、また米国ホテルチェーンのComfort Innが決して「慰み宿」などではないように、"comfort"と「なぐさめる」は同じではない。このように、文脈によって違う訳語をあてるのも、翻訳の(困難かつ)醍醐味と言える。







7/02/2019

オスラー卿を知っていますか

 米国内科学会誌に「ウィリアム・オスラー卿は、RVUを稼いでいたか?」という投稿が載った(Ann Int Med doi:10.7326/M19-0665)。RVUとはrelative value unitの略で、要は「診療報酬の支払い点数」のことである(こちらも参照)。

 研究と教育に身を捧げ、大学にとって(医学の発展にとっても)欠くことのできない財産であったオスラー卿。しかし多くの活動には経済的な「生産性」がなかったので、現在のスタッフ選考基準からすれば彼は大学に居続けることができなかっただろうと投稿者(なんと、循環器内科医である)は言う。

 今年はオスラー卿の没後100年にあたるが、その間に米国の医学部と教育病院の関係、社会・医療制度などは大きく変化した(医学教育と社会の変化について歴史的に論じたKenneth M. Ludmererによる2005年の大著、"Time to Heal"の要約目次も参照)ので無理もない。

 しかし投稿者は、「RVUもいいが、今こそもっと大切なバリュー(教育、メンターとしての関わり、コレジアリティ=医師どうし良好な関係を築くこと、研究、患者ケアなど)に立ち戻る時だ」と言う。さもないと、100年後の人々に「どうしてそんな状況なのに何もしなかったのか?」と不思議がられてしまうだろう、と。


 没後100年、私達も改めてオスラー卿の人生を顧みてはどうだろう。重厚な故・日野原重明先生の訳した講演集『平静の心』(新訂増補版は2003年)、今年出た平島修先生、徳田安春先生、山中克郎先生著『こんなときオスラー:『平静の心』を求めて』は、既にお読みの方も多いだろう。また訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』4章にも、彼の生涯から学ぶべきアドバイスをまとめてあるので参考にされたい。

 日本内科学会の専攻医登録評価システム(図はロゴ)もその名を冠するほど、日本の医療とつながりの深いオスラー卿。今後、米国内科学会だけでなく日本の内科界でも投稿のような議論が広がり深まればなと思う。

 




6/27/2019

忘れられない一言 60

 研修医のとき、末期がんの患者に「家から近い病院に移してください」と言われた。そこで隣町の病院に掛け合ったが最初は断られ、すぐ上司に泣きついて直接電話してもらい、転院搬送の救急車にも同乗して行った。
 
 それから10年以上たって、(べつの)患者の家族から同じ希望を受けた。当時のことを思い出し、直ちに先方の病院に連絡して了解をとった。しかし、転院するまでの数日で病状が悪化し、転院の日に亡くなった。

 患者と家族の望みをかなえられなかっただけでなく、病棟スタッフやカバーする同僚をハラハラさせ、転院先にも迷惑がかかった(搬送中に亡くなる可能性だって、あった)。

 どうすればよかったか?

 一つ目は、予後予測を正確にすること。末期といっても残りの時間は日単位から月単位年単位まで幅があり、患者ごとに見極めなければならない。

 これに関連して、末期がんで亡くなった脳外科医・Paul Kalanithi著、"When breath becomes air"(邦訳は『いま、希望を語ろう 末期がんの若き医師が家族と見つけた「生きる意味」』)で、Paulの主治医はいくら聞かれても統計上の生存期間についてだけは一切話をしなかった。

 二つ目は、予後について患者家族はもちろん、関係各所にも早めに伝えておくこと。みんな心の準備ができるし、早めの転院や転院キャンセルといった対応も早めにできる。

 そして三つ目は、主治医自身も何がベストかを考えることだと思う。上の場合、「たどり着く途中で亡くなっても、自宅が無理でも、とにかく1メートルでも家に近いところで最期を迎えたい」というほど強い希望なら、それは尊重されるべきだっただろう。

 しかし、予後が数日で、主治医も患者をよく知っていて、緩和ケアを受けられて、ご家族が通うのもそこまで不都合でないのなら、転院だけがベストだったかは分からない(上の場合も、ご遺族には「先生に看取ってもらえてよかった」と納得してもらえた)。

 これに関連して、やはり"When breath becomes air"の主治医はPaulに「あなたにとって最も大切なことはなにか」を繰り返し問い、それを尊重する立場で終始一貫している。
 

 患者家族の「死にゆくこと」に、医療者としてどう向き合うか。それがまさに、柳田邦男氏の言う「2.5人称の視点」なのだろう。美しく、的を射て、数式のように抽象的で、筆者も好きな(以前つかった)言葉。だが実際どうするかとなると、けっこう難しい。





 

6/20/2019

忘れられない一言 59

 先日ソウルで開催された韓国腎臓学会で、隣で朝食を食べている腎臓内科の教授とざっくばらんに話をした。その日は日曜日であったが、彼はこんな話をしてくれた。

5 years ago when I went to see patients on Sunday they said "oh you came on Sunday".  Now when I see patients on Monday they say "oh you didn't come on Sunday".
(5年前、日曜診察に行くと患者は「え、先生、日曜に来てくれたんですか」と言った。今は、月曜診察に行くと患者は「あれ、先生、日曜に来てくれませんでしたね」と言う。)

 それを聴いた筆者は、休みの前日患者に「明日は休みなので来ません、休み明けにお会いしましょうね」と率直に伝えていると話した。

 というか、安定している患者には「外出されて結構ですからね」と伝え、おうちで過ごしたければそうしてもらうこともある。休日はよほどの事情がなければ検査はいれないし、点滴なども朝晩にすれば日中は移動できる。

 逆に、不安定な患者であった場合には、「別の先生に診察をお願いしてあります。科内では毎日あなたの病状を話し合っており、みんながあなたの病状を共有していますので心配なさらないでくださいね」と伝える。

 患者に患者以外の役割があるように、医師にも医師以外の役割がある(写真は、筆者が学会ついでにのんびりしたYongsan Mall I'PARK)。それを犠牲にして長く続けるのはとても難しいし、限界を越えれば心身をこわしてしまう。患者だって、ベストコンディションの医師に診療されることを望んでいるはずだ(訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』の9章「汝自身を癒せ」も参照)。

 「来てくれなかった」「来なかったといわれた」という感情は、お互いの期待がくいちがっているから起こる。期待を揃えるためのコミュニケーションが不可欠だ。筆者が話したあと、教授は「アメリカン・スタイルだね」と言ったが、筆者は「リーズナブル・スタイル」と思っている。





6/04/2019

忘れられない一言 58

 筆者が表題の「忘れられない一言」シリーズを始めたきっかけの一つ、米国内科学会雑誌の投稿コラム"On Being A Doctor"(単行本も出ている、写真は4巻)。研修医からベテランまで「医のアート」について考えさせられた医師なら誰でも投稿できるこのコーナーに、今週も心を動かされた(Ann Intern Med 2019 170 810)。




 昔々、サンフランシスコでは、路上で(酔って)行き倒れている人たちを夜回りして病院に運ぶ救急サービスがあった。彼らは俗に「酔いどれクルーザー(boozer cruiser)」と呼ばれた救急車でサンフランシスコ総合病院のERに運ばれた。

 そこではERレジデントがトリアージを行い、DT(振戦せん妄、致死的な離脱症状)や外傷があればその治療をした。なければ、イエロー・ボトル(ビタミンB群を含む輸液)を入れて、翌朝まで待機してもらい、入院か退院かの判断を待った。

 ある朝この先生は、チーフレジデントとして内科部長と研修医と待機している患者たちを回診をしていた。身体も服もきれいになってさっぱりした患者たちの多くは、元気になって、きれいなベッドや朝食に感謝して帰っていった。

 しかし、そこに1人だけいつまでも残っている患者がいた。やせこけ、目を閉じ、ささやくような声で「疲れた」と繰り返している。聞けば、昨夜は側溝に落ちて酒と吐物にまみれていたのだという。

 研修医は「カケキシアと軽度の低体温を認めるほか特記所見ありません(ので退院と考えます)」と言った。内科部長はうなずき、「では入院させよう」と言った。驚き不満で「何の診断ですか!病棟に、入院の理由を何と言えば?!」と抗弁する研修医。

 その問いに部長は一言、

Compassionだよ

 と答えた。

 Compassionとは、赤津晴子先生の『アメリカの医学教育』(1996年)のなかでcompetencyと並び、よき医師の二大資質と紹介されている。人間味のある心、他人をいたわる心。日本語なら「情け」、漢語なら「仁」や「慈」だろうか。具体的に言うと、上記コラムのような心。







5/17/2019

忘れられない一言 57

 いま手技をしているので、その手技が必要かどうか判断を求められることも多い。

 もちろん純粋な適応の有無、メリットとデメリットなどを考慮して患者さんに説明して決めるのであるが、こんなとき私の頭をよぎるのが、2010年にレジデンシーしていた病院の循環器内科メンターから教えられたこの言葉だ。


 「床屋に行ったら、髪を切る


 元は“Don’t ask the barber whether you need a haircut.”という表現で、少なくとも1970年代までは遡れるようだ。床屋には髪を切るという利益の相反があって、髪を切るべきかを客観的に判断するのは難しい(たいていは、必要といってしまうだろう)。

 あの投資家、ウォーレン・バフェットも、バークシャー・ハサウェイの総会で1994年、「どの業種や会社が伸びるかといった予測は、予測者のバイアス以外の何者でもなく一銭の価値もない(それを信じるのはナイーブ過ぎる)」として、この表現を使っている。

 もっとも、この言葉にあまり解説はいらないようだ。筆者が帰国してから使った相手はいままで100%、すぐさま意を察して思わず笑ってくれる。手技がもっとも分かりやすいが、コード・ステータスや抗がん剤、果ては透析などにもいえることだ。

 だれもが自分の専門や信条に縛られる。何がベストなのかを見失わぬよう戒めなければならない。また、もちろん床屋であるからには、間違って頭皮や耳まで傷つけないよう腕を磨くことも大切だ。

それにしても、このメンターには本当にお世話になった。枝葉末節よりも、本質をつかむ力をつけてくれた方で、そういえば雰囲気もウォーレン・バフェットに似ていた(写真)。英語表現もたくさん習ったし、患者さん思いの本まで書いておられ、いつかその後を追おう!という気にさせられたものだ。

 こういう、ロールモデルの先生との出会いは、本当に貴重だ。自分も、なんらかのよい影響を周囲に与えられれば良いのだが。





[2019年6月追記]床屋の話が出たついでに、筆者のいまの師匠はことあるごとに「床屋さんのことを考えると、頭が下がる」と言う。筆者は床屋さんに行ったことはないが、同感だ。美容師さんも、時間内にすべきこと(シャンプーやマッサージ、トークまで含む)をしてくれる。物腰や手つき、すべてが洗練されていて、行くたびプロだなと思う。

 もちろん彼らは学校にいるときからマネキンを切り、卒業してからは下積みして、仕事が終ってから「カットモデル」を無料で切り・・と長い準備をして腕を磨いている(写真は、町田杏子が沖島柊二のカットモデルを引き受ける、2000年のドラマ『Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜』第一話より)。


(出典はこちら

 
 そう考えると、医師がマネキンを切り始めたのは最近のことだし、「カットモデル」は「教育病院ですので研修医が診療することをご了承ください」という掲示で同意されたことになっている、患者だ。訳書『医のアート ヒーラーへのアドバイス』4章には、医療者は患者に奉仕するというが、患者も医療者に奉仕していると書かれているが、本当だなと思う。



5/08/2019

忘れられない一言 56

スピッツもらいましたか?

「え?」

「スピッツもらいましたか?」

「え?」


 筆者は腎臓内科医をしているので、外来ではほとんどの患者さんで尿検査をオーダーする。しかし、来院してから採尿できない可能性のある方には、事前に容器を渡して当日おうちで尿を採取してもらっている。

 その容器は紙コップでも何でもよいのだが、スピッツ管(写真)が用いられることが多い。おそらく栓がしやすく持ち運びやすいことと、先が尖っているのでそのまま遠心して上清と沈査に分離できることが理由だろう。



 
 冒頭の会話スキットでは、医療補助の方が患者さんの家族にその確認をしていたのだが、一般にはスピッツとは犬の種類、または1987年結成のJ-POPグループ(写真は1994年『空も飛べるはず』MVより)だろう。それで、何のことだか分からなかったと思われる。




 じつは筆者も知らなかったが、スピッツ(spitz)とはドイツ語で「先の尖った、鋭い(英語のpointedやsharpに相当)」という意味。試験管の名前も先が尖っていることに由来するし、バンド名も、ボーカルのマサムネさんがその語感と意味を気に入って付けたとか。

 「容器のことです」と付け加えて解決したが、そのあとしばらく『空も飛べるはず』のメロディー、1996年に主題歌となったドラマ『白線流し』の名シーンなどが頭に去来し、まるで診察室に爽やかな風が吹きぬけたように感じられた。

 なおこのように、医療者で通じる言葉(英語では、lingoなどという)と、患者さんや家族の受けるイメージに違いがある例は枚挙に暇がない。また逆に、医療者は意図しない語感を患者さんや家族に与える言葉も、ある。

 たとえばアーチスト®(カルベジロール)というαβ遮断薬。アーティストとは書いていないが、もちろん"artist"という意味である。「アーチストという薬をお出ししましょうね」と言われれば、なんだか自分がアーティストになったような気がするかもしれない。

 じっさいこの薬は高血圧などを「創造的かつ個性的に治療する」、という意味から命名されたらしい。

 もちろん、商品名だろうが、ジェネリックな一般名だろうが、外国での名前(英語圏ではCoreg®が一般的)だろうが、薬効成分は同じである。しかし、名前の印象というのは意外と大きいから、たとえばジェネリックに変更する時などはきちんと説明する必要があるだろう。



4/28/2019

時間の質と量

 外来をしていると、「先生は他の曜日は来てないんですか?」と言われることが時々ある。筆者は常勤なのでそんなことはなくて、他の曜日のうち勤務の日は、病棟・透析室・カテーテル室・手術室などにいる(実際はほかにも、医局・食堂・トイレなどにいる)。
 
 医師が勤務中にどこで何をしているかは、医師自身にとって重要なのはもちろんのこと、社会的にも一層注目されてゆくと思われる。燃え尽きるような働き方、医療の質がさがるような働き方は是正されなければならないからだ。

 しかし、どのような働き方がよいかという話になると、答えはひとつではない。

 よく聴かれるのは、「最近の医師は、カルテと書類に時間をとられるあまり、電子カルテのスクリーン前に貼り付いて、患者と過ごす時間がない」という論調だ。このたびJAMAに発表された、米国1年目の内科研修医を対象にした調査(doi:10.1001/jamainternmed.2019.0095)でも、インターンが患者と過ごすのは勤務時間の13%。いっぽう電子カルテを読み書きする時間は43%だった。

 なにか、問題があるだろうか?上記論文は「以前は患者と過ごす時間が25%であった」と書くことで、それくらい必要だと言いたげだ。ただ筆者は、25%なければならない、というわけでもないと考える。

 もし、診察で必要な情報が得られ、日々病状と治療方針の説明ができているのなら、13%でも医療の質は保たれる。医局でいろいろ調べてから書く電子カルテは、病棟の廊下やナースステーションで走り書きする紙カルテよりも、時間はかかっても充実した内容で、むしろ医療の質を向上させているかもしれない。
 
 ただし、患者に「ひと」として接して、気持ちに寄り添った診療を行うには、13%は不十分だろう。身体診察による癒しの力をTED talkで強調して話題になったAbraham Verghese先生のように、「医療はデータ収集や問題解決だけではない」と信じる人々も多い。筆者もいくつかの経験(こちらこちらの投稿なども参照)からそう信じるようになった一人だ。

 ではどうすればよいか?

 量と質の両方で考えてはどうか。

 量といっても残業はできないので、患者の前にいる時間を確保するために裏での仕事をできるだけ効率化する。前回投稿で挙げたオーダーセットやテンプレートだけでなく、入院サマリーと退院サマリーを同時に書く、コピペ「せずに」短時間で簡潔なカルテを書く(読む時間も節約できる!)、など工夫はたくさんある。

 質という意味でも、工夫できる。たとえば、椅子に座る、目を合わせる、うなずく、笑顔を見せる、途中でかかってきた電話を患者の前で「すみません、患者さんとお話しているので、また掛けなおします」と切る、短時間でもよいから複数回訪室してフォローする(「さっきお話した栄養指導はきょう2時半から入りましたよ」とか)、などだ。

 とにかく、「私はいまここにいて、あなたを気づかっています("I am here for you to care for you")」という態度を示すことだ。

 なお、こういった工夫をさらに知りたい読者は、Richard Colgan著"Advice to the Healer: on the Art of Caring"(『医のアート ヒーラーへのアドバイス』として訳本が刊行、全国の書店には2019年5月に並ぶ)も参照されたい。



 
 

4/19/2019

クールなプロフェッショナリズム

 外来患者枠は1人10分(30分枠に3人)あればよい方だから、どれだけ効率化しても外来はどうしても「押す」。それで、12時予約の初診患者さんを診るのが14時になることもある。

 そんな時は座りっぱなしで尻が痛く、消耗で頭がぼーっとしているので、(身体所見の診察か・・またにしようかな)と思うことも、正直ある。しかし、それでも診察したときに限って、大事な所見があったり、初対面の患者さんから「私は今、あなたが信頼できるドクターだと結論しました!」といわれたりする。

 筆者は日頃から、「効率化(オーダーセットやテンプレート)」、「チェックリスト化(抜けを防ぐ)」、「優先順位づけ(事前に出来ることは事前に、後でよいことは後にする)」などの、いわゆる「ライフハッキング」を礼讃している。
 
 そんな筆者であるから、上に挙げたエピソードで伝えたいメッセージも、「燃え尽きるまで闘いましょう」ではない。むしろ逆で、「その時その場所でその人に必要なことをするのが、結局一番の近道ではないか」ということである。

 一歩踏み込んで診察することで診断に至れば、不要な検査を避けることが出来る。また初診患者の信頼をその場で得ることは、以後の診察をずっとスムーズなものにしてくれるだろう。

 なお、こういう(やっぱりちゃんとやろう)という態度を指す用語に、「プロフェッショナリズム」がある。これは「熱血」とはちがい、「やるべきことをやりましょう」というクールさの漂う言葉だ。

 これを最初に講義してくれたのは米国で初期研修した病院のプログラム・ディレクターであったが、彼のいう定義がまさに、「押した外来の最後の患者の厄介な問題を、見て見ぬ振りしないこと」だった。 

 その卒業時には「プロフェッショナリズム賞」という(履歴書には書けないが)名誉な賞をいただいたものの、以後プロフェッショナリズムについて講義を受ける機会もなく、結局何なんだろうと考え続けてきた。

 『医のアート ヒーラーへのアドバイス(原著はAdvice to the Healer: on the Art of Medicine)』を訳そうと思ったのも、そのためである。さまざまな側面から詳しく例示されており、これを訳してようやく「こういうことなのかな」とつかめた気がする。

 本書は4月下旬に中外医学社より刊行される。もし参考になれば、幸いである。




4/11/2019

医のアート、という時のアート

 Richard Colgan著"Advice to the Healer: on the Art of Caring"が、筆者訳で『医のアート』として今月末に刊行されるのにともない、アートについて考えている。この言葉はよく「技術」や「技法」と訳されるが、それだと同様に訳されることの多い「スキル」や「テクニック」の意味合いが強くなり、「アート」とずれる気がしていた。

 そんなとき、今週の英Economist誌に、遺伝子編集技術などの合成生物学についての特集があるのを読んだ(下図は表紙)。遺伝情報を読み替えたり加工したりして医学をふくむさまざまな分野に応用する試みに、頭が吹っ飛ぶような(mind-blowing)衝撃を受けたが、もっと衝撃を受けたのは内容よりもコラムの質だった。





 特集の見出しは「生命を加工する技術が、すべてを変え始める日も近い(The engineering of living organisms could soon start changing everything)」と新聞的であるが、そのあとつづくコラムのタイトルは"A whole new world"。言わずと知れた、1992年のディズニー映画『アラジン』のテーマである。

 それだけならまだ、思いつくかもしれない。しかしさらに、段落ごとの節目に置かれた副タイトルまでもが"Shining, simmering, splendid"、"Unbelievable sights"、"Dazzling place I never knew"といずれも歌詞から引用されている。内容にもマッチしているし、「すごいね!」と読んでいて快哉を叫びそうになる。

 ただし、このようにタイトルや副タイトルを有名な作品から引用すること自体は、テクニックと言える。歌詞のshining、simmering、splendidはいずれもエスで始まっているが、これも「頭韻」という技法だ。

 いっぽうアートというのは、その一次元上の概念だと筆者は考える。つまり、コラムのアートとは、こういった技法をさまざまに組み合わせながら当意即妙さや読後の感動を極めてゆくということだ。それは日本語でいう「道」。詩歌や絵画、文章だけでなく、医療にも道がある(じっさい、「医道」という言葉もある)。

 それは、終わりがないという意味では気が遠くなったり厳しかったり苦しかったりするだろうが、「道中」にはいろいろ感動とか出会いとかがあって、その過程を楽しむこともできる。人生を賭けた、楽しく美しくやりがいのある追求。ここでいう「アート」の定義にしたがうなら、誰でも「アーティスト」になれる。

 

4/04/2019

サイエンスでアートに触れる喜び

 通勤路に桜並木があると、気軽に花見ができて便利だ。ある朝、「今年も咲いて偉いねえ」と思いながら桜並木の下を歩いていると、桜が花びらでなく花(blossom)単位で落ちていた(写真)。




 なんだか可愛そうになって、手にとってみた。すると、花びらの間から同じ数のガクが出ている。そうとは知らず驚いた私の頭の中に、下図のような二つの5角形(赤、茶)が思い浮かんだ。



これらの頂点、あわせて10個をつなげば、下図のような10角形(緑)ができる。ここまでくると、だいぶん円に近い。



 こうして倍々にしていけば、辺の総和が限りなく円周に近づく・・・とぼんやり思ったころ、職場に着いた。それからは、桜や多角形のことは忘れて仕事していたが、お昼休みに「2のn乗」角形の辺の総和をnで表現して、nを無限大にすればいいじゃない?と思いつき、(お薬屋さんの説明でもらえるメモパッドで)作図を始めた。

 そのためまず、「2のn乗」角形の一辺a(n)から、「2の(n+1)乗」角形の一辺a(n+1)を求める。nが2の場合を例にすると、オレンジ線から緑線を求めることになる(nがあがっても、同じ要領でできる)。

 


 そのために下図のように補助線をひくと、ピタゴラスの定理などから赤・黄色線が以下のように決められる(赤とピンクの和は、円の半径だから1)。



 
 ここで、赤・黄色・緑線でできる三角形についてもういちどピタゴラスの定理を当てはめると、下図下段のような漸化式ができる。




 エヌが2の時、a(2)は√2(一辺1の正方形の対角線)。「2のn乗」角形の辺は「2のn乗」個あるから、その一辺の長さa(n)に「2のn乗」をかければ辺の総和になる。いっぽう、エヌを無限大に飛ばして近似する円は半径1だから、2π。整理すると、下図下段のようなπにいたる極限の式ができる。




 泣きそうなほど美しいが、これはちょっと、手計算できない。電卓でも(関数電卓でも)、煩雑だ。それで、エクセルのマクロ機能をつかってnを上げていった。すると、256角形までで小数点以下4桁までπがでた(下表の赤字)。




 さらに、16384角形まで行くと、小数点以下7桁までπがでた。



 
 筆者には、「自然に数学が隠れている!」というような「サイエンス」っ気は一切ない。あくまでも、「アート」としての花鳥風月を愛で、堪能している。こういう「花見」もあるということだ。

 そしてここまでたどり着いた時、筆者はじつは「ああ、生きててよかったなあ」と思った。医学の父ヒポクラテスは、「人生は短く、アートの道は長い」と言った。この感情が、「アート」に触れる喜びなのかもしれない。


[2019年4月13日追加]上記のようなことだけでなく、桜について知ってほしいことが、ほかにも沢山あることがわかった。阿部菜穂子著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(2016年刊、岩波書店)を、ぜひ読んでほしい。英Economist誌が"You may never look at cherry blossom in the same way again"と英訳本を紹介しているのもうなずける。


[2019年6月6日追加]上記の「2のn乗」角形と「2のn+1乗」角形の面積比を求めて、nを無限大に飛ばすことで得られるのが、Viète(ヴィエト)の公式である。これは1593年に発表された、nを無限に飛ばして円周率に近づく人類初の公式だった。原始的だが、2とルートだけでπにいたる美しい式だ。


ただし、
a(n) = √(2+a(n-1))
a(1) = √2 


 ただし、この方法論ではいくら工夫しても小数点以下の数10桁までしか収束しない。飛躍的に正確さが増すのはアーク・タンジェントを用いたマチンの公式(1706年)の登場後になる。また、100年たってオイラーが三角関数の公式にまで一般化した(下記のエックスが「π/2」の場合がヴィエトの公式になる)。




 筆者は「数学好き」というわけでは必ずしもないが、こういうかたちで数学と接するのは、やはり好きである。




3/28/2019

y = sin(pi*x/29.5)^2

 仕事を終えて外に出ると、月がでている。三日月だったり、半月だったりする。それを見て何を考えるかは人それぞれだが、何十年も生きてきて初めて、

「いま光っている部分は、満月に対してどれくらいの割合なんだろう?」

 と思った。たしか、三日月の時だった。3という数字から、上記の割合に結びつける方法が、あるような気がしたのだ。そこで調べると、こういうことだった。まず、月を新月から少しずつ満たしてみよう。






こうしてみると、月が下図のように、あたかも右前を向いているように見えないだろうか?


 この向いている先に、太陽がある。月の北極上空からみると、下図のようになり、X軸からの傾きをθとしよう。



この状態をふたたび地球から見て、さらに満月の半径を1とするグラフ平面に置き換えるとこうなる。


 光っている部分の面積は、「(円の面積 - 楕円の面積)÷2」で求められる(下図の上段)。円の面積が「1×1×π」なので、冒頭に自問した「満月に対する割合」はこれをπで割ればよい(下図の中段)。そしてこれは三角関数の半角の公式で、下図の下段に書き換えられる。


 では、θをどのように月齢nと置き換えるか?月の公転周期は約29.5日であるから、θはこれとラジアン角の360度(2π)をもちいて下図上段のように置き換えられる。ちょうどよく半角にすると2πの2が消え(下図中段)、代入すれば・・・

 月の光っている部分の満月に対する割合は下図下段のように定められる。



 Googleに「y = sin(pi*x/29.5)^2」と入れると、グラフまで表示してくれる(こちらからも見られます)。しかし検索結果のなかに月と関連したページはないようだ。

 このサイン(の二乗)カーブは、太古の昔からずっーと変わらずに描かれてきた。それが、ただ美しい。仕事の悩みなんて、ちっぽけに感じられる。
 

 

3/16/2019

「モノ」から「もの」という、新しい神話

 MISIAの"Everything(2001年)"といえば、日本語がわからない人でも聴けば思わず涙が出てしまうであろうほど、MISIAの歌唱力と楽曲が心を打つ名作だ(写真はミュージックビデオにでてくる横浜の赤レンガ倉庫)。しかしそれだけではなく、ドラマ『やまとなでしこ』の主題歌なだけあって、その歌詞には文字通りドラマの「主題」が体現されている。





 このドラマは今では婚活や恋愛、ファッション、ロケ地、出演者の演技やその後、などで語られることが多いが、一番のテーマは「人生で一番大切なものは何か?」だ。

 その主題歌"Everything"はドラマの中で、主人公・桜子の欧介に対する「あなたが私のすべて」という思いを、歌にして間接的に視聴者に伝えている。そしてそれが、彼女がとてもそう思っているようには見えない時期(それが変化する過程がこのドラマの魅力でもあるのだが)にも流れる。「本当に大切なものは、目には見えない(『星の王子様』より)」からだ。

 お金に服に、ほしいものは沢山あった桜子。もちろんそういったものも大切だ。しかし、消費社会で手に入れる商品は、いつでも代わりの効く「モノ」である。だから私達はそこに価値を加えたり(いつどこでどんな状況でどんな理由で買ったという「意味づけ」、雪塩を使用といった「こだわり」、これが好きという「気持ち」、など)、「コト」消費を提案したりする。

 でも、もしかすると本当に大事な、かけがえのない「もの」というのは、消費して得られるものではないのかもしれない。本当に大切なものは、代わりがきかない。

 だから、本当にかけがえのない大切なものは、たった一つでも「すべて」なのだ。この歌(とドラマ)はそれを教えてくれる。そしてそれが時代と場所を越えた真理だからこそ、「新しい神話」としていまでも愛されているのかなと思う。

 こんな話をするのは、「やまとなでしこ」が医師役の多いドラマだったからではもちろんない。説明は要らない気もするが、医療者がかけがいのない「もの」である「いのち」にかかわる仕事だからだ。

 たとえば、医のアートについての教科書"Advice to the Healer:On the Art of Medicine(『医のアート』として翻訳本が刊行予定)"は、その第1章で、トルストイが晩年に書いた短編『三つの質問』に挙げられた、以下の質問と答えがケアの本質だと説く。


1. 最も大切な「とき」は、いま。
2. 最も大切な「ひと」は、そばにいるひと。
3. 最も大切な「こと」は、そのひとのためにしなさい。


 医療もまた消費活動であり経済活動なことは否定しない。それでも、「患者」と「家族」だけは「モノ」にはならない。できれば、「医療者」もそうであってほしい(図は『三つの質問』のMichael Sevierによる表紙絵)。




 

2/27/2019

忘れられない一言 55

 初期研修を終えたあと、総合内科で「シニア」的なお仕事をしていた時に、科内で薬剤師さんからTDM(therapeutic drug monitoring、抗菌薬などの血中濃度をモニターし投与量を決めること)を講義してもらう機会があった。

 当時の筆者は今以上に生意気だったので、聴きながら(大学で薬理学の単位を落としかけたことも忘れて)「そんなことは知っている」と思いあがり、講義のあとで自分の知識をひけらかすような質問を沢山した。そうして場がなんとなく変な雰囲気になったあとで、ボスがこんな質問をした。

薬剤師さんが、どんなときにやりがいを感じておられるかに、関心があります

いま思い返しても、本質をつく言葉だなと思う。患者さんも「ひと」なら、医療職もまた「ひと」。ひとりひとりが、苦楽を共にする仲間。中島みゆきの『糸(1992年)』は「あなた」と「私」の二本だが、医療というのはもっとたくさんの糸が織り成す、もっと大きな布だから、きっともっと多くの誰かを暖め傷をかばうのだろう。




2/18/2019

外来予約の数学的な考察

 外来診療では患者さんを4週、6週、8週、12週など偶数週おきに診察することが多い。しかしこれらの数字は互いに素ではないので、たとえば12週に一度は4週おきに診るAさんと8週おきに診るBさんと12週おきに診るCさんの診察日がそろって、その日は飛びぬけて外来患者さんの数が多くなる。

 おなじことは自然界でも問題になりうる。7年ゼミ・13年ゼミのようにセミの周期に素数が多いのは幼虫が起きてくる年を互いにずらしているから(あるいはそのような周期のセミだけが自然選択で残った)という説があり、素数の本『素数姫の素数入門』(「素数に恋する女」製作委員会)にも紹介されている。

 ということで思いついたのが、素数週のフォローアップだ。5週、7週、11週のように完全に素数でなくても、「互いに素」な4週おきのDさんと9週おきのEさんは36週おきにしかかぶらない。こうした工夫によって、外来患者さんの週ごとの人数は平坦になるのではないか?

 そもそもフォローはどうしても偶数や4の倍数週おきでないといけないわけではない。むしろ「1カ月おき」「2カ月おき」と思って4週おき、8週おきにしても一ヶ月は28-31日なので、合わなくなってくる。それで1週ずらして奇数週にするというようなことは臨床現場でよくある。

 患者さんに「仕事の都合でどうしても6週おきがいい」などの希望がある場合は別だが、そうでなければ奇数週に抵抗はないと思われる。なお筆者はいまヘアカットを5週おきにしているが、とくに困ったことはない。

 むしろ課題は、ほんとうに素数・奇数週フォローのモデルが外来患者数の偏りを解決するかということだ。こちらは既にされた研究がないかを調べるなどしてもうすこし検証してみたい。三連休がふえて月曜外来の患者数が休みの前後週で倍近くになるなど、外来患者数の偏りはリアルに困った問題になりうる。役立つ解決モデルがあってほしい。



 

 
 

 

2/08/2019

忘れられない一言 54

 以前、患者としてかかった担当医師に「先生も大変ですよね」といったら、「私はいま泣きそうに感動しています、本当に」と言われたことがある。

 同じように、担当した患者さんのご家族から「ありがとうございました、先生もお身体にきをつけて」といわれて、うるっとした。

 たくさんある業務をかぎりなく効率的にして、最善を尽くしてさまざまな臨床判断をして、集中して手技して・・・と日々お仕事をしてやりがいも感じているが、あまりにも殺伐とすると心が乾いてくる。

 こういうお言葉はほんとうに、砂漠でみつけたオアシスのように貴重で、何物にも代えがたい。






 

2/07/2019

数秒間待つこと

 外来で患者さんを呼び込んでから(最近は番号だ)ドアが開くまでの数秒間、患者さんを待つことがある。そのあいだに電子カルテの検査値だの記載だのに気をとられると、ドアが開いても目が合わない。

 それでもすぐに「ああ〇〇さん、こんにちは」と笑顔で目を合わせて挨拶すればさほど失礼には当たらない。

 しかし、たとえばリハビリ中の患者さんがそれまでずっと杖を使っていて、たまたま待合スペースから診察室までの数メートルを杖なしで歩こうと決心してドアを開けているような場合もある。





 そしてそういう場合は、達成感とよころびでドアを開けた患者さんの笑顔を受け止めてあげたほうが親切で礼儀正しいと思う。患者さんはさんざん医師を待っているわけだから、医師のほうも数秒くらい患者さんを待たなきゃと、反省した。

 


 

2/01/2019

忘れられない一言 53

 5年間の米国生活、救急外来で診療する機会は数え切れないほどあったが、患者ないし患者家族として受診する機会はなかった。しかしもし患者として受診していたら、この一言にびっくりしていたかもしれない。

 「遺書はありますか?

 「遺書」といわれるとビックリするが、これはadvanced directiveのことだ。




 日本語通訳の方がこういったようで患者さんもびっくりしていたが、たしかに「事前指示」という訳語もあまり一般的ではなく、そもそも急変時や自分で意思決定ができなくなったときにどうするか(コード・ステータス)をあらかじめ決めている人はそう多くない。

 そんなわけだから、時間のない救急外来でコード・ステータスを確認しようとしてもけっこう困るのではないか。筆者はこういう問題を深くかんがえるタイプだからいろいろ苦労したが、最近は現実的にやれるようになって、わりと助かっている。

 その要点をいくつか書いてみると、コード・ステータスは

1)何かがなければならないが、

2)こうでなければならないというものはなく、

3)いつでも変えられる

 と言うことだ。

 まず1)については、「決められないならフルコード」になる。そういっておくと、とりあえずの結論がでる。

 2)についていえば、「DNARを取るべきだ」と医療者が考える場合はその理由を十分に説明するべきだが、「DNARでなければならない」ということはない。Agree to disagree、意見の相違があることを認めて、フルコードでどうなるかを知ってもらえば、それでよい。

 この時、AND(allow natural death)という言葉を使ってもいいかもしれない(こちらも参照)。

 そして3)についてだが、最初は1)の意味でのフルコード(あらかじめ「心肺蘇生しないでほしい」という明確な意思がなく、救命目的で救急外来にやって入院診療する以上は「がんばりたい」というような)で、その後DNARにかわってもよい。

 病勢が悪化する、急変がより差し迫る、心肺蘇生の意味が医学的になくなってくる・・・など入院してから状況は変わるし、ご本人とご家族がいろいろ考えたり話し合ったりして方針が変わることもある。


1/18/2019

入院サマリーの書き方 後編

3. 身体所見

 バイタル>みため(general appearance)>頭頚部>肺>心臓>腹部>四肢(皮膚・筋骨格)>神経、と、系統的に書く。電子カルテ時代であるから、それぞれの一般的な所見をいれたテンプレートを作っておいてもよいだろう(紙カルテ時代は、ハンコだった)。あるいは、基本的な所見なら数分でかけるようにしておいてもよい。例えば:

T36C 150/80mmHg 90/min R16/min SpO2 98%RA
苦悶表情なし
頭頚部 眼瞼結膜貧血なし、眼球結膜黄染なし、口腔粘膜湿潤、扁桃腫大なし、頚部リンパ節腫脹なし、頚静脈怒張なし
肺 呼吸音左右差なし、crackle・喘鳴聴取せず
心 S1正常S2正常S3/S4聴取せず、心音整、心雑音聴取せず
腹部 軟、圧痛なし、腸音正常、肝脾腫なし
四肢 浮腫なし、チアノーゼなし、足背動脈触知、皮疹なし、関節腫脹なし、筋肉把握痛なし
神経 脳神経II-XII異常なし、両上下肢筋力・知覚正常、腱反射正常

 と書くのに、じっさいは2-3分しかかからない(予測入力機能があれば、もっとはやい)。

 これらの所見のとり方は別に習って欲しいが、残念ながらOSCEを過ぎると学生・研修医時代に診察の仕方を教わる機会は意外と少ない。「診察するのを見ててください」と先輩医師にお願いしてみるのも一つの方法だ。また、検査などで結果が出ている患者さんで診察のいわば「答え合わせ」をするのも非常によいフィードバックになる。


4. 検査所見

 
 本来の「H and P」は病歴と身体所見までで、それらに基づいて検査と治療の計画を立てる。しかしわが国の入院時サマリーは入院時に行なわれた諸検査をふくめるのが一般的だ。どの科でもだいたい診るものとしては、以下が挙げられる。

血算
(白血球、分画、Hgb、MCV、血小板など)
腎機能・電解質
(BUN、Cr、尿酸、Na、Cl、K、Caなど)
※わたしは腎臓内科なので、ここにHCO3、IP、Mgも足したい。
肝酵素
(AST、ALT、Bil、総蛋白、Alb、gGTP、ALPなど)
代謝
(血糖、HgbA1c、TG、総コレステロール、LDL、HDLなど)
炎症
(CRPなど)
尿
(比重、蛋白、潜血など)
画像
(胸部X線、心電図、CT・MRIなど)

 これらに加えて血液ガス、血液型、凝固、感染症(梅毒・B型肝炎・C型肝炎・HIVなど)などもぱっとわかる検査であり、とくに救急外来ではだされることも多い。
 

5. プロブレムリスト


 入院したからには、入院理由があって、それを解決して入院が不要になる(通院や転院もふくめて)ようにするのが私達の目標だ。あたりまえのようだが、あたりまえではない。それだけですか?と考える人もいる(こちらも参照)。

 とはいえ、そういう人たちもプロブレムを挙げることを否定しているわけではない。そのうえで、「医療には、さらに数値化・言語化できないひととしての関わりもあるんじゃないですか?」とおっしゃっているだけである。

 さて、プロブレムの一番は、入院理由だ。すでに診断がついているのなら「肺炎」でも「膜性腎症」でも「橋本病」でもかまわない。ついていないのなら代わりに「発熱」「蛋白尿」「甲状腺機能低下」などと書くしかない。

 それから、色々見つかった異常をリストにする。「しびれ」などの症状、「糖尿病」などの既往歴(現在治療しているアクティブなものでよい)、「浮腫」などの身体所見、「貧血」などの検査異常にくわえ、「介護する家族の不在」など社会的なものまで含まれる。そして、最後に「急変時(フルコード、DNAR)」を書いておく。

 なお、全身管理を要するICU患者さんなどでは、システム(脳神経、循環、呼吸、腎電解質、代謝栄養、血液・・)ごとにプロブレムを書いていくこともある。


6. アセスメントとプラン


 アセスメントとはプロブレムごとに「なにがおきているのか」「どうしたらいいか」と問いかけて考えることだ。まずは主訴について「なにがおきているのか」を考える。診断にはおおきく演繹的なアプローチと帰納的なアプローチとあり、これらを組み合わせていくことになる。

 演繹的なアプローチとは、主訴をおこす病気一覧のなかから原因を探すことだ。たとえば発熱なら、肺炎か、尿路感染症か、胆のう炎か、髄膜炎か、皮膚・軟部組織の感染症か、悪性腫瘍か、膠原病か、血栓症か・・と当たっていく。

 世の中には星の数ほど病気があるが、いくつかにまとめることはできて、たとえばVINDICATEのような語呂合わせもある。

V 血管がつまる、切れる、破れる(vascular)
I 感染症(infectious)
N 悪性疾患(neoplastic)
D 変性(degenerative)
I 医原性(iatrogenic、薬など)
C 先天性(congenital)
A 自己免疫疾患(autoimmune)
T 外傷(traumatic)
E 内分泌・代謝(endocrine/metabolic)

 演繹的なアプローチは漏らしが少ないが、何も考えずにリストのうえからチェックしていくのは冗長になりがちだ。それに対して帰納的なアプローチとは、患者の情報を積み重ねて推論することだ。たとえば発熱・腹痛・黄疸がそろえば、肝・胆・膵などの感染や炎症を疑うだろう。

 ただし、帰納的アプローチといっても病気の種類をまったく知らなければぴたりと答えにいたるのは難しい。胆石性膵炎、急性肝炎、十二指腸がん、総胆管結石による胆管炎・・・などの病気リストから、どれが最も考えやすいかを演繹的に考える作業も必要だ。

 なおこの分野は「臨床推論(clinical reasoning)」として確立されており、推理小説(シャーロックホームズのモデルはスコットランドの医師ジョセフ・ベルである)、テレビ番組(ドクターG)にもなっている。そして、医師のやりがいの一つでもある。
 
 脱線したが、じっさいのサマリーにはどう書くか。もっとも疑う仮診断(working diagnosis、またはtentative diagnosis)を書き、さらに別候補の鑑別診断を書くのが一般的だ。そして、どういう点(疫学、症状、病歴、身体所見、検査所見・・)がその診断に合い、どういう点が合わないかについて考察する。

 たとえ「昨日入院した脳梗塞の患者さんを診ておいて」といわれたような場合でも、脳梗塞の根拠(神経症状、画像所見など)を挙げたほうがよい。また、脳梗塞の原因(心原性、ラクナ梗塞、めずらしい血管炎や血栓症など)や合併症(梗塞内の出血、誤嚥性肺炎など)も考えてみるといい。

 同様に主訴以外のプロブレムについても考察していく。プロブレムが1個という単純な患者さんは少ない今日この頃、すべてのプロブレムを診るのは大変だ。が、脳梗塞で入院した糖尿病患者さんの血糖を無視するわけにもいかない。ひとりの患者さんから多くを学べるチャンスだから、できるかぎり食らいつけるといい。

 「なにがおきているか」のつぎは、「どうするか」だ。これがなければ、考えるばかりで前に進まない。大きく分けて検査プランと治療プランにわかれる。検査プランはアセスメントで挙げた診断を除外・確定するためのもの。各論はプロブレムごと異なるが、大まかには侵襲が少ない順に以下のように分類できる。

・病歴の追加
 本人、家族、施設、かかりつけ医など
・身体所見の追加
 直腸診など
・血液・尿・便・その他体液の検査
 なにかの数値、培養、細胞診などをみる
・画像検査(X線、CT、MRIなど)
・生理機能検査(心電図、超音波、呼吸機能、ABI、脳波など)
・より侵襲的な検査(針生検、内視鏡、試験開腹、血管造影など)

 治療プランもまた、プロブレムごとに異なる。それでも、大別はできてだいたい以下のようになる(手術、内視鏡、PCI、透析、人工呼吸器管理、放射線治療などの専門的な治療は、各科で学んでほしい)。

・処方
(定時、必要時など)
・注射
(末梢、中心静脈、皮下、輸血など)
・処置
(酸素、圧迫止血、下肢挙上、創部洗浄、尿道カテーテル留置など)
・食事
(絶食、制限などもふくめ)
・リハビリ
(PT、OT、ST)

 なお、こうして大別した検査と治療のうち自分で実際にやるのはごく一部で、多くは「オーダー」をだして看護師さんや技師さんにやってもらう。臨床実習中には、どのようにオーダーが書かれ、伝えられ、受け取られ、実践されているかをよく見ておいてほしい。医療の不確かさやコミュニケーションの重要さが分かるだけでなく、チーム医療のやりがいや人と関わる面白さにも気づけるはずだ。


7. 終わりに

 
 ここまで、「病歴」「身体所見」「プロブレムリスト」「アセスメントとプラン」の書き方を説明した。これらは最も基本的でよく使う「仕事道具」であり、飯を食っていくという意味では「お箸」でもあるから、一度系統的に習っておいて損はないと思う。また、学生さんが来るたびに「現病歴というのは・・・」と繰り返し同じことを教える手間が省けてウィン・ウィンになることを意図してもいる。

 よい意図でつくったこの文章が、あなたと私、そして世界を少しでもよくしたなら幸いである。